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夢のつながり [京都と三つ鱗]
夢を見た
2月19日の未明の夢
細い路地を歩いている。
両側には賑やかな人の行きかう混沌とした
個人商店が立ち並ぶが
それそれが古めかしい家を改装したような
和洋折衷な雰囲気の飲み屋やみやげ物屋
お化け屋敷なども立ち並んでいる。
時間は薄明で
昼とも夜ともいえず・・・
左側に上っていく坂があって
なんとも言えず懐かしい規視感をともなう。
この坂を登っていけば○○の近道なんだけど
その○○が思い出せない。
最初はひとりだったけど
ジュニアが迎えにきてくれた。
(彼はわたしの仕事上のボスのご子息で
昨年からボスの仕事を手伝っている。
これは現実の話。)
レトロなバー、はたまた居酒屋のカウンターのようなところで
知らないおばちゃんがいて
そのおばちゃんはジュニアと懐かしそうに話をしている。
多分彼が小さい頃からの知り合いのようだ。
そこは京都なんだ、と
わたしは認識をしている。
とっても京都のようには思えない猥雑さだけど
(千と千尋に出てくる町のようだ・・・とは
目が覚めてから思うのだけど。)
カウンターでおばちゃん〔初対面〕とわたしとジュニアで
透明の丸いグラスで麦酒を飲む。
「お母さんもよく京都に来たの?」
わたしがジュニアに尋ねる、と
「さあ、」みたいな生半可な返事。
そこをでて坂をまた見上げる。
○○に行くには・・・
そこである図形がポンと出てくる。
夢なのでそこはとりとめもない。
わたしだけじゃないかもしれないけど
夢は四次元であるらしいけど
三次元的であったり、二次元的であったり・・・
その図形はなんの脈絡もなく
「ポン」とでてきて
そこで目が覚める。
目が覚めて思った。
あ、
ミツウロコ!
北条氏の家紋だ。
でもあの「京都」は
けったいな町だったなあ・・・
ほんとうに、千と千尋に出てきそうな・・・
目が覚めてから
千と千尋を検索したら
夢とそっくりな町を見つけた。
それは台湾の北部にある町で
自らを「千と千尋」のモデルとうたっているらしいが
とうの宮崎監督はこれは日本だ、と否定しているらしい。
「きゅうふん」といい「九」に「にんべんに分」
(変換できない!)
この写真は階段だけど、夢ではこれそっくりな坂。
それにしても夢の中の「京都」というキーワードと
ミツウロコの紋は関係あるのだろうか?
それともそれらは完結していて、別々のものなのだろうか?
それで今度は
ミツウロコ(三つ鱗)と京都がなんらかの関係があるかどうか
調べてみた。
でもでも
でてくるのは、北条氏のことばかり。
けっこうスピ系のひとたちの間では
源頼朝と北条政子の夫婦は人気がある。
わたしはといえばあまり興味がないので
できたらさらっと流したいところ。
だから今まで深く調べたこともなかった。
そうしたら・・・・
そうしたら・・・・
びっくり仰天の事実が出てきた。
あのお方につながってしまったんだ。
夢からとんでもない駒
続きます。
夢のつながり 「平安京へ」
たかが夢です。
いちいち気にしていたんでは日常が進んでいかない。
でも、なんだか気になる夢があって・・・
2月19日の夢は最近始めた「夢日記」に
図形だけ描いておきました。
前回のブログで書いた
「ミツウロコ」の図形です。
龍が三枚の鱗を落としていったという小田原一円を納めたという
北条家の家紋は
昨年の3月23日にご縁があって行った江ノ島にも刻まれておりました。
それとどう考えても京都とは思えないキッチュな町並みの中を彷徨する夢は
とても印象に残っています。
しょうがない。
苦手な日本史を紐解くことにしましょう。
今ならスマホであっという間に検索できてしまうので
とっても便利になりました。
「ミツウロコ」と検索すると
あれよあれよと「北条氏」にたどり着きます。
そんなさなかに山中湖のるかさんから「お見舞い」の電話あり。
最近は同郷の仲間たちとの電話は
「どっちが大変か!」を競い合う武勇伝で終わります。
西湖のほうが大変、とか
本栖湖よりまし、とか
河口湖より吉田のほうが降ったとか・・・
うちなんかさあ~壁よ壁、雪の壁!
同じ、おんなじ~!
おしゃべりしていると
先月、だったか
「伊豆山神社に行ったんですよ~」とるかさん。
へ~!
わたしも行けばと言われて久しいが、まだ行っていません。
「あそこも源頼朝と北条政子なのよねえ・・」
でた!
存じ上げませんでした。
白龍さんと赤龍さんの熱海の温泉の神さまだと思っていた!
ふうん。
そして、るかさん、22日に江の島に行くのだといいます。
へえ~!
そりゃ、ミツウロコだわ・・・
雪が溶けたらお茶でもしましょうね!
(いったい、いつ溶けるんだ?)
さてさて
「北条氏」を検索して出てきてしまったのは
「桓武平氏」
(かんむへいし=平安時代の初めに平姓を与えられて臣籍に入った桓武天皇の子孫の称)
え?
最近、妙にこの名前が出てくるので
頭の片隅に残っていた、「桓武平氏」
まさか、まさか、まさかねえ・・・
そう!
平の将門さま!
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86%E9%96%80
渋谷川が気になったあたりから
ずっとずっと付きまとわれている(わたしが付きまとっている?)
将門さまは
桓武天皇の五代後の子孫ではなかったかしら?
ピンポ~ン!
(平将門の娘と伝えられる瀧夜叉姫)
ということは
北条政子と将門は血縁あり?
将門さまは赤龍の子供だという言い伝えあり。
赤龍?
そしてそして
桓武天皇とは・・・
「啼くよ(西暦794年)鶯、平安京」
つまり
今日の京都の礎を作ったお方ではないですか?
あまりにも話しが壮大になってきたので
今日はこの辺で・・・
江戸の次は平安京かしら?
でも
わたしは京都へは行きませんからね。
絶対
行きませんからね。
明日は富士山の日、だけど
メダルよりも大切なこと
いやあ
完全に参りました。
わたしも親戚のおばちゃんのように
真央ちゃん!金メダル取らせてあげたいなあ、なんて
ソチ冬季オリンピックが始まってから
祈るような気持でいました。
でも
よく考えてみたらわたしはオリンピック否定派。
とくに冬季オリンピックは開催地の自然をことごとく破壊する。
16年前の長野五輪のときは
オリンピックの開催が決まったときから
長野新幹線や高速道や
開催地の山林はことごとく伐採されたのは記憶に新しい。
でも、いざオリンピックが始まってしまうと
その年は愛するスノーボードが競技種目に認定されたこともあり
結局、一緒になって、手に汗を握ってみている自分がいました。
「環境保全」と「観光誘致」
決して交わらぬ両者の平行線の中で。
人間て、なんて単純なんだろう?
身近な人がオリンピックに出る!となったら
やっぱり応援したくなる。
そしてやっぱりメダルを取れば
感動が頂点になるだろうし
身近でなくても日本人なら当たり前の感情だ。
そしてメダルの色にもこだわって
それが金であれば、日本中大騒ぎ。
よっぽどの天邪鬼でなければ
当たり前の話だ。
でも今回の浅田真央ちゃんの演技は
わたしたちにすごいことを気がつかせてくれた。
「メダルよりも大切なこと」
「得点という数字よりも大切なこと」
金メダルを取ることよりも
日本人、いや、他の国の人たちをも
感動させることってあるんだな。
ありがとう。
真央ちゃんと
ソチの懐の深い大きな自然の神々。
あなたたちの命が
決して無駄になりませんように。
わたしたちがこれを期に
変わることが出来ますように。
陰陽師
今、思えば
と
「水の一族」と あのトンネルの話
2月23日は富士山の日。
それなのに
2月14日に関東甲信をおそった大雪の影響で
山梨側の大きなイベントは中止となった。
こんな日に
わたしたち家族は、父の墓参りに富士宮にでかけた。
東京から前日に皆で一泊して
ぐるりと河口湖(北麓)から西南、つまり裏鬼門にあたる富士宮に向う。
幸いにして、国道139号線も
大雪の4日か5日ぶりに開通して
富士五湖地方は陸の孤島ではなくなった。
メンバーは七名。
父から見ると、
先ず妻であるわたしの母。
娘たち、長女と次女、つまり姉とわたし。
そして孫二人、つまりわたしの姪と甥
そして、ひ孫たち二人。つまり姪の子供(二歳の長女と一歳の長男)
なんだかすごいよね。と
笑いながら一台のバンで富士宮に向う。
「だんだん増えてくるね。」
今年は父の27回忌であるので
七月にはその法要をやりましょうとのことになった。
父が死んで人口が一人減ったけど
この26年で父の遺伝子を持つものが三人増えた。
これからもっと増えてくるのだろう。
そしてわたしたちの苗字
女系家族のためにあわやこの世からなくなりそうだった
「坂東太郎利根川の上流の川の名」を持つ
この国で一軒しかなかったわたしたちの苗字は
幸いにして、消えずにすみそうだ。
全ては姉のおかげ。
結婚せずに男児を産んだ姉が
おそらくこの家の因縁切りをしてくれたのだろう。
(そんなことをいうと怒り出すだろうから
ひっそりと影ながら感謝しています。)
富士宮のお寺さんで
皆でお昼ご飯を頂いたころから姉とわたしが先月末の続きのおしゃべりを始めた。
姉の代官山のトンネルの話。
わたしの妙な探訪も
そこから何もかも全てが始まってしまったのだから。
「だからねえ、そこがすごいのよ。なんだろうなあ、
磁場が違うっていうか、
わたし、代官山って特別なところなんだと思う。」
そしてそれを表現するのに
「宇宙エネルギーっていうか・・・」という言葉を使ったのにはたまげた。
とてもそういう人ではなかったから。
わたしみたいにトンデモ本を読み漁っているタイプではない。
そして
前回言わなかった話をした。
「それにね、五、六年前に旧山手通りで遺跡が出たでしょう。
だから遺跡の発掘で、工事がストップしたのよ。」
「古代遺跡?
旧山手通りで???」
わたしはすでにその時は
富士山に移住しているので、寝耳に水だった。
「だからね、やっぱり絶対何かあるのよ。
あとね
わたしが思うには、あのタワー、あるじゃない?
あれが関係していると思うのよ。」
わたしはまた代官山が気になり始めた。
大雪のために16日に行くはずだった代官山行きをキャンセルして
もしかしたらもう行く必要がないかもしれない、と思っていたところ。
ふと、渋谷川の話をしてみた。
そうしたらなんと姉も知っていて
「わたしも以前調べたよ。なんか気になって。」
「なんで調べたの?」
「TVでやってたんだよね~。今は水がちょろちょろで、すごく可哀想な川になってるって。」
「渋谷川ってさ、あの童謡の春の小川だったんだよね。」
「そうそう、それそれ。
それをTVでやっていたの。」
「ふうん。」
しかもそれは数年前のことらしい。
でも同じことが気になるんだ、と思った。
姉と甥は明日仕事だということで
東京へ帰っていったけど
母と姪家族は残った。
それから家に戻ってきてから
姉の話
旧山手通りで数年前に発見されたというなんらかの遺跡?と
そのトンネルが関係あるような気がして
気になって気になってしょうがなくなってしまった。
宇宙エネルギーを姉が感じるという代官山のトンネル。
(異次元の入り口とも言っていた。)
そしてそこのすぐ近くに「猿楽塚」という町名の由来となった古墳らしきものがあり
それとの関係は?
そしてさらに数年前に発見されたという
旧山手通り沿いの遺跡とはどのようなものなのだろう。
そして何故かみんなが気になる「渋谷川」・・・
そこにはどんなつながりがあるのだろう。
そうしたら!
「加瀬竜哉 NO RIVER NO LIFE」という
まったくわたしたちと同じ方向を見ているかたの
ブログを見つけてしまったのだ。
その旧山手通りで見つかったという
渋谷区最大の古代遺跡を検索していたら・・・
http://www.kasetatsuya.com/norivernolife/noriver_nolife_07_04.html
「鶯谷遺跡」
それが2007年に発見されたという
渋谷区桜ヶ丘鶯谷町の
大規模な、弥生と縄文の複合古代遺跡の名だった。
(これがそのタワー(左)と
この古代遺跡の位置関係。
加瀬竜哉氏のブログからお借りしました。)
姉のいう
「あそこは絶対何かがあるのよ」という何かは
何なのだろう?
古代遺跡と
レイライン?
水の流れ???
さて、今日は
河口湖に残った母と姪のちびたちと共に
一緒にランチをしておしゃべりをした。
そうしたら
姪がまた驚くべき話しをしてくれた。
姉の知らない、また代官山のすごい話・・・
続きます。
封印された将門の北斗七星
姪の代官山の話は
少し置いておいて
昨日の姉との話の続きを
先に書いてしまいますね。
話があちこちに飛んじゃって
ごめんなさい。
これまであらすじ?のおさらいと
まだまだどこまでも続く
わたしを動かしている大きな潮流のお話です。
先月末に姉が突然富士山に来て
代官山のトンネルの話して、それをブログに書いた。
そしたらそれを見たK子さんがそちらに行き
次の日には渋谷川が気になると・・・そしてそれからそれから
わたしは新宿御苑の玉藻池にたどりつき
ついでに神田上水を調べたら、お江戸日本橋にたどり着き
徳川家康と天海坊
はてさて平将門と、ついでに京都まで足を伸ばして
桓武天皇や安部清明にまでつながってしまったんだ。
姉が来た1月末には
「日本の歴史なんて興味がないよ」といっていたわたしが・・・
昨日、一連の話の流れから
気になって、姉に聞いてみた。
「平の将門はなにか感じる?」
「あんまりなあ。
だってわたし源氏だから。」
きゃ~~~~~!
なんという断定!
やっぱり姉は笑える。
われらが菩提寺は先日水巡りをした周辺にあり
ここいらは「源頼朝」の史跡だらけなのだ。
「将門はね、平と藤原に討たれたんだよ。
だから、平家ってわけでもないの。
日本三大怨霊のひとりでね、」
と、最近調べたにわか知識を披露するわたし。
将門はね、坂東、つまり関東平野でとても大きな勢力を持つようになって
それで京都からみたら朝的となってしまって、
それで自分のお兄さんたちに討たれたの。
渋谷川で。
そして旧暦だけど、2月14日!
このあいだの大雪の日と同じだよ!
「へえ、お兄さんに・・・
じゃあ源義経と頼朝と同じ構造だね。」
出た!
わたしの苦手なNHK大河ドラマ的時代背景。
じゃあ、これはどうだ!
「将門はね、京都では怨霊として怖れられたけど
ほんとうはこの坂東でいろいろな揉め事を解決してあげた
ゴットファーザーみたいな人だったかもしれないの。
徳川家康はその将門を江戸の守り神として祀って
江戸に北斗七星の結界を張ったらしいよ。」
これは1990年代の半ばに出版された
加門七海の「将門魔方陣」の受け売りだ。
でもあのころ、わたしはこの魔方陣と
父の人生の妙な符号に気がついていたんだ。
「ふうん」
これでもまだ
姉は、わたしは源氏だから、といった表情・・・
じゃあ
その北斗七星の頭と尻尾は
どこだと思う?
わたしは姉に尋ねた。
代官山?
ちがうよ!
もっと身近な、
鎧神社!
ココロの旅 「ヒマラヤの麓へ」
ココロの旅 続きです。
1990年4月に
「地球意識」をテーマとした秋冬コレクションを
恵比寿の古いビール工場跡地で行なった話しを書いてから
ずいぶんと間があいてしまったけど
ゆっくりと書いていこうと思います。
コレクションと呼ばれている秋冬のファッションショーが終わると
ご褒美のようにGWがやってくる。
ここ数年の話しだけど
この時期は盆と正月に続くまとまった休みが取れるので
海外に逃げ出していた。
それは本当に逃げ出していた、というに相応しい。
それは自分が日本人であることを忘れる旅であったからだ。
その12年後には
世界で一番美しい自然があるのは日本だと感じ
富士山麓に移住してくるのだけど
この時点では、そのことに気付いてもいない。
でも
クラインの壷のように
外へ外へ外へ
どこまでも意識を拡大しているつもりが
実は内側へ
自分自身の奥深くに向っていたのだろう。
その年の1月にちょっとしたきっかけで
ヨガなど始めていたので
最後にその直前に行ったブラジルとは
かなり異なった旅になるだろうとの予感があった。
その
結果的には会社員としては最後の海外旅行となる旅に
ネパールを選んだのはどうしてだったか覚えていない。
ほとんどの訪れる場所はなんらかのきっかけがあるのだけど
ヒマラヤの麓の小国行きを何故決めたのだったか。
そういえば、渋谷にネパール料理の店があって
当時はよく通っていた。
そこで仲良くなったネパール人がお兄さんがポカラで宿を経営していると
紹介してもらったんだった。
そのネパール料理屋に勤めていた従業員が
のちの東電女子社員事件で容疑者となって騒ぎになったのではなかったか。
あれはまったく謎の事件だったが
会社が当時目黒区青葉台三丁目の旧山手通り沿いにあり
帰りに渋谷駅に行くのに歩いて帰宅するときに
神泉という駅を通過して道玄坂に抜ける。
東電の女子社員が殺害されたアパートはその踏み切りの向こうにあって
会社の同僚がコンビニで聞き込み調査に協力したという話しもあった。
話しはそれてしまったが、覚えているのは
ネパール料理はとても日本人の口にあっており
その、渋谷の料理屋で情報収集してから その国にむかったような記憶がある。
覚えているのは
Sと二人でバンコクの往復チケットだけ買って
バンコクからネパールの格安チケットを買おうと決めたことだった。
いわゆるバックパッカーと言われている若者がよくその手を使うけど
わたしたちのようにフィックスチケット(行きと帰りの便が決まっていること)
だと、その空港に何日足止めするかわからないので大変危険なやり方だけど
当時はそんなリスクも楽しんでいた。
おそらくバックパッカーごっこをしてみたかったのだろう。
明日は風任せといった気ままな旅を気取っていたのだが
いついつまでに戻らなくてはいけないタイムリミットのある旅で
帰ればまたタイムカードと昨年対比が待っているのだ。
もっともあれほど自由が欲しかったのに
会社を辞めてしまったら、自由はとても退屈だった。
その自由になるまでにあと2ヶ月。
初めて降り立つヒマラヤの大地は
わたしに何をもたらしただろうか?
1894年以来だって、大雪!
アースダイバー ついに縄文へ
さて
代官山にはどんな秘密があるのだというのだろう.
わずか一日前
2月24日のこと。
墓参りのあと、一日泊まった姪と
普通に「水琴茶屋」でランチしていたのだが
あの「姉の代官山のトンネル」の話しになった。
「あそこね~。
うんうん、すごく不思議な感じだったね。」
今回わかったことは
その姉が経営していた店と、そのトンネルは
ほんとうに目と鼻の先にあったということだった。
ここが店だとするでしょう。
そうしたら
トンネルはあそごくらい。
そういって
姪は水琴茶屋のドアを指差した。
正面というよりは
はす向かいと言った感じだろうか。
姉の店がそこにあったのは
2002年から2007年くらいだったらしい。
姪は高校を卒業してから、大学にも専門学校にも行かずに
その代官山の店を手伝っていたそうだ。
そうだ、というのは
わたしたちは富士山に移住してしまって
そこから法事でもない限り帰ることはなかったのだから。
あのトンネルよりね、
姪は話し始めた。
そこをね、ハリランのほうにいくと
「XXやのやっている本屋みたいのがあるの。
そこは以前駐車場だったんだけど
そこの公園みたいなところが
わたしはよっぽど感じたなあ・・・」
「そしたらさ
そこは、徳川のなんだっけ、なんだっけ
お屋敷?の跡みたいだったよ。」
きゃ!
でた!!!!
徳川?
あんなところに徳川のお屋敷跡????
ほんとに?
「そう、そこがとても気持ちよかったの。
なんだかグワングワンするの。
だから、よく行ったんだよ。」
ふうん。
姉はトンネルがすごいという。
姪はその公園がすごいという。
どちらもそんな話しをするような人物ではなかった。
何かがきっかけとなって
いままで話さなかったことを話してくれている。
そんな気がした。
姪が東京に帰ったあとも
わたしは気になって
気になって
またしても仕方が無い。
ところが
昨夜は、上手く検索が出来なくて
スマホもPCも駄目で、どうしても
その代官山の○○やの徳川家の屋敷跡にはたどりつけない。
そんなときには何をしてもどうしようもない。
それでおとなしく寝た、
今朝
何かに掻き立てられるように
検索してみたら
やっぱり!!!!
そこは確かに徳川家水戸藩の屋敷跡だったけど
なんの上にそれが建てられていたのか?
そして何故、姪がそこが好きだといったのか
なんだか、分かってしまったのだ。
「アースダイバー」とは
「東京はどこを掘っても縄文遺跡が出てくる」
と、イタリアで豪語してしまった哲学者の中沢新一氏の著書のタイトルだけど
やはりそこには
縄文の石組みがあったに違いないと
わたしは何故か確信した。
江戸、平安京と途方も無いことに頭を突っ込んだ気がしたけど
本来のわたしのホームグランド
「縄文」に
やっと、戻ってこれた。
そんな安堵感でわたしはいっぱいになった。
(その代官山XXやのHPより
私たちが「文化の森を創ろう」と考えたこのプロジェクトの始まりから、
その場所は代官山以外に考えられませんでした。
いくつもの理由がありますが、何よりもまず、代官山の地に眠る物語に惹かれたからです。
中沢新一氏の著書『アースダイバー』(講談社)によると、
縄文時代の東京は非常に入り組んだ入り江になっていたそうです。
その時代の渋谷は海。一方、代官山は陸地で、人々は暮らしを営んでいました。
渋谷と代官山の間には位相の違いがあり、当時からここは山の手であったことが伺えます。
時代を経るにつれて、その地勢の良さが歴史と物語を育んでいきます。
古くから武家や大きな商家の屋敷が並び、
その後、諸外国がここに大使館を建てるようになりました。
由緒正しい土地柄にさらなる品格を加えたのは、
代官山のランドマークともなっているヒルサイドテラスです。
朝倉家と建築家・槇文彦氏により、30年もの年月をかけて作り上げられたヒルサイドテラスは、
街の顔つきと雰囲気、そして街の文化を丁寧に醸成していきました。
向かいにはデンマーク大使館とエジプト大使館が、
そしてヒルサイドテラスの隣に位置しています。
基礎工事中には巨石がいくつも掘り出されました。
水戸徳川邸の庭にあったものではないかと言われていますが、出自は謎に包まれています。
この中のいくつかの石を、私たちは敷地内に置くことにしました。
代官山XXXを訪れた際には、この寡黙な石の物語に耳を澄ませてみてください
スパムコメントに注意!
最近
[記事読みました♪私も記事更新しているので、見てみてくれたら嬉しいですo(*^▽^*)o更新楽しみにしてますね♪]
これは、スパムメールならぬスパムコメントとわたしが勝手に呼んでいるもので
同じコメントを大量にたくさんのブログに送りつけてくるものと思われます。
目的はアクセスアップでしょうね。
連日違うかたから送られてくるので
どこかでアクセスアップのコツとかでやっているのでしょうか。
明らかに記事を読んでいないことがよくわかります。
そのようなコメントは削除してしまうのですが
そのような手で、アクセスがアップしても嬉しいのでしょうか。
あるいはなんらかの利益を狙っているのでしょうか?
削除する手間だってあるので
そのように大量のコメントを送ることを禁止して欲しいものですね。
さて、大雪から明日で二週間。
河口湖に注ぎ込む山の神川にかかる橋を
三日たってアップしたのが
この写真。
雪が橋の欄干まで来ています。
緊急!首都巨大地震と将門さま
(番組は
富士山にも PM2.5!
陰陽師の真実Ⅰ「闇が闇として存在していた時代」
ここのところ話しがあっちゃこっちゃ飛びますが
「一件落着」という感じになってきたので
落ち着いて整理してみたいと思います。
先週、「陰陽師」というタイトルの記事を書いたんですが、
あれを書いたのは、2月10日と2月17日の二週にわたって
映画版「陰陽師」のⅠとⅡが相次いで放映されたことによるものではないんです。
その二日後、2月19日に不思議な京都の夢をみて、最後にミツウロコの紋が出てきたので、京都とミツウロコが何か関係がないかと探していたら、ある方から「葛の葉稲荷にミツウロコが印されていている」と教えていただいた。
そちらを検索してみたら、正式には「信太森葛葉稲荷神社」という大阪の和泉市葛の葉町にある、安倍清明の母を祀った神社でした。「葛の葉伝説」という清明の母が白狐であるという伝承に基づくものということ。そこにミツウロコ???
それでいっきに興味が湧いて、今までなんだか遠ざけていた、「安倍清明」と「陰陽師」をがっぷりと調べてみようかな、と思ったのです。
大雪で閉じ込められていたしね。
それがここまでのあらすじ(?)です。
さて、清明といえば、あまりにも有名なこの清明紋
「五亡星」は陰陽五行の「木、火、土、金、水」という万物を司る要素からきているといわれています。
わたし達はこの陰陽五行などをすでに暦などに取り入れていますよね。
例えば今年は「甲午(きのえうま)」 ですが、これは五行の木、陰陽では陽、十二支では午ということで、「大樹の午」を現すのです。
またもや脱線。
それでは陰陽師とはどんな人たちなのでしょう。
もともと陰陽五行思想は中国から来たものですが、大陸には「陰陽道」 という言葉はないそうです。
これは日本に渡ってきてから作られた「道」であり、「師」ということのようです。
そして「道」とは、思想体系のことだそう。
調べていくと、陰陽師とは、お抱え占い師のようなもの、との説明がよく出てきますが、国の政りことには無くてはならない大切なこと、例えば都を移す時期と場所、天皇の行幸から結婚からその方角などを決める。仙術や祓いを行なう。五穀豊穣を祈願する。
といった重要な官職、つまり今でいう国家公務員なわけですね。
その「陰陽師」は実は明治になるまで存在していたというのは驚きでした。
江戸城の無血開城で、時代が明治に突入したとき、陰陽道は「文明開化のさまたげになる」とされて明治政府により禁止されました。
その結果、陰陽道は廃れていきます。
そしてその時にたくさんの日本の文化が破壊されています。
「神仏分離令」などもその例で、各地でたくさんの仏教施設や仏像などが破壊されました。
映画「陰陽師」のキャッチコピーに「闇が闇として存在していた時代・・・」 というのを見かけますが、
まさにそれは江戸時代が終わるまで存在していたのであり、
目に見えないものの存在を信じていた日本文化が成熟する長い時間だったように思えます。
縄文と江戸時代は似ている、と利理さんというかたがおっしゃっていたけど、何故なんだろうと思っていましたが、最近はなんとなくそれが理解できるような気がしてきました。
争いが無く、平和的に庶民の文化が爛熟したところがでしょうか。
今何故こんなにも日本の文化について興味が湧いてきたのかも、わたし的に、なにか意味があることのような気がしています。
さて
次は「安倍清明」その人物に迫ってみたいと思います。
じっと 時を待つ
今日はまだ40センチくらいありそうな雪の中で眠っているのかな?
あと二週間もすれば
ココロの旅 シヴァの寺院で神秘体験
24年も前に行った旅行のことを思い出すのは骨が折れる。
細部まで思い出せないのはしかたがない。
肝心なことだけ
最大に印象に残っていることだけを
書き留めて置こうと思う。
バンコクで一泊したときには
特にこれといった感覚はなかった。
すんなりと、ではなかったかもしれないが
(そのときは、何かの事件が起きて、ネパール全土に戒厳令が惹かれていた。
予定していないところに旅行者が入れない事態も起きていたけど、
それはどこへいっても有り得たことなので、慣れていた。
中国、ペルー、スリランカ・・・)
初めて土を踏んだネパールの地で
わたしは始めての感覚を味わった。
空港におりたった時からだ。
町をバスで走っていると
奇妙な感覚。深い瞑想状態に入っているような感覚がしてた。
「やっぱりすごいねえ。ここ」
Sは特には感じていないようだった。
カトマンドゥの小さなバックパッカー向けの宿に
チェックインをして
早速、バンコクのホテルで共に足止めとなっていた日本人の男性ふたりと
一緒に地元の食堂で夕飯を食べた。
ネパールの首都、カトマンドゥで一番行きたかったのが
「パシュパティナート」いう寺院だったけど
すぐ次の日は行かなかった。
宿の近くから回ろうということになったのだと思う。
パシュパティとはシヴァの別名で
ヒンドゥの神々には幾つかの化身があり
それぞれに名がついている。
パシュパティは金の角を持つ鹿の姿をしている、といわれる。
シヴァはヒンドゥの最高神のひとりで、破壊と再生の神であるが
世界を破壊するときは、恐ろしい黒い姿をとる、といわれ
その姿が「マハーカーラ(大きな黒)」すなわち大黒天である。
日本に伝わると、大黒天は打出の小槌を持つ頭巾を被ったおじいさんの姿になった。
千手観音にしても十一面観音にしても
日本に伝わる不思議な肢体の仏像は、ほとんどヒンドゥの神々の姿がベースとなっているのだ。
さて
カトマンドゥの東に位置するパシュパティナート寺院は
ネパール最大のヒンドゥ教寺院であるばかりではなく
最古の寺院とされている。
紀元前3世紀には最初の寺院が出来たという歴史ある場所なのだ。
さらにバクマティ川に面しているが
この川が、母なるガンガーつまりガンジス川の上流にあたり
ヒンドゥ教徒にとって、ここで死んで荼毘に付される、つまり火葬されることは
その煙とともに、必ず神の世界にいけると信じられている
寺院の中にはヒンドゥ教徒しか入れないので
高台から見下ろせる絶景ポイントがあるのだという。
ネパールについて何日目かに
そちらのポイントに行った。
まるで深い瞑想状態で歩いたり食べたりしている不思議な感覚は、
ネパールの空港を降り立ってからそれまでもずっと続いており
そこに来て寺院を見下ろすと
とても気持がよく、
それは、最高潮に達した。
近くでサドゥと呼ばれるヒンドゥの修行者が瞑想していた。
サドゥの贋物もいて
旅行者にハシシ(大麻樹脂)を売りつけて暮らしているものもいるようだ。
本物か偽者かの見分けは地元のひとであればすぐに見分けがつくのだという。
ココロの旅 「パシュパティナートでぶっ飛んだ!」
その丘からは
ヒマラヤ連峰
あの世界の尾根
アンナプルナが見渡せた。
わたしはそこに対峙するように座り
尾てい骨を大地につけた。
そしてその土地のエネルギーが螺旋を描いて
わたしのクラウンチャクラに抜けていくことを思い描いた。
その次の瞬間・・・
わたしは空高く上昇していった!
というよりも
そのように感じただけかも知れない。
大きな大きなボルテックスが寺院の上に巻き起こり
わたしがそれに巻き込まれ行くような感覚だった。
その後、シュン!とすぐにわたしは地上に戻ってきた。
何事が起こったのか?
Sには馬鹿にされそうで、その話しはしなかった。
「うわ! すごい!
ここってすごいね。」
Sはただニコニコしていた。
この話しには、そのあとの後日談があって
「地球の歩き方 ネパール」に
あの丘のことが乗っていた。
その本は実際に行った旅行者の投稿がたくさん掲載されていて
ほとんどの情報はすでに古くてあまり役には立たないのだけど
こんな記事が載っていたのだ。
「パシュパティナートでぶっ飛んだ!」
それによるとその男性は、サドゥからハッシシを買い
それをあの同じ場所で吸ってみたら
自分自身が高く寺院の上空に上がっていったビジョンを見たのだという!
「うわ!」
その記事を読んでわたしは本当に驚いた。
わたしは断じて、ハッシシなどやっていない。
しかしやったこの男性と同じ体験をしたのだ。
これはいったい、どういうことなのだろう?
やっぱりあそこの土地
それが特別な場所だったのだろうか。
それともタイミングが何かあったのだろうか?
カトマンドゥからインド国境にあるチトワン国立公園というところに行き
象に乗ってインドサイなどの野生動物ウォッチングを楽しんで
その夜激しいスコールと天地創造のようなダイナミックな空を眺めて
エキサイティングなネパールの旅を終えて
最後に機上の人となる寸前に
再びパシュパティナートへ向った。
そこはわたしがこの国で一番好きな場所となった。
そしてその年は二度
ネパールに行くことになった。
そのGW、会社を辞める前と
年末、会社を辞めた後である。
前者はSと
後者はともに会社を辞めてインド・ネパールの旅をユウヤと行った。
ユウヤと行ったパシュパティナートでは
わたしには何もおきなかった。
どころか、あの深い瞑想状態のような感覚は
二度と戻ってこなかった。
わたしの神秘体験というものは
後にも先にも
あれ、一度っきりだったのである。
今日3月1日は魚座の新月
今年は元旦から新月で始まりましたが
安倍晴明の真実 ①
安倍晴明。
陰陽師としての名を欲しいままにした
実在の人物。
鎌倉時代から明治の初頭にかけて「陰陽寮」を総括した
安倍氏(土御門家)の祖。
でも、映画に描かれている彼は
本当にあの姿だったのかしら?
リアリズムを追求するわたしは
また小さな旅にでた。
いつもの悪い癖。
彼の生きていた時代
平安時代中期に行ってみたくなった。
調べれば調べるほど
虚構と現実の世界の大きな隔たりに気付く。
リアルな彼、安倍晴明は
出生地がどこであるかは確定されていない。
大阪説
茨城説
香川説などがあるらしい。
大阪説について
大阪市阿倍野区阿倍野元町には安倍晴明を祭神とする
神社があり、「安倍晴明生誕伝承地」の碑がたっているらしい。
え?阿倍野???
阿倍野には近鉄デパートがあって、わたしが勤めていた会社の直営店があり
25年くらい前は年に四回ディスプレイに行っていたなあ・・・
そのころまったく関心がなかった。
茨城説について
驚いた!
「ほき妙」所収の由来を根拠にしているといわれ、これは今のところ最も古い時代にまとめられた晴明の伝記とされているもので、重要だとか。
茨城???
うそ!!!
「月刊ムー八月号(No237)では
晴明の父は平将門であると結論づけています。」
出ました!!!
これはあながちまったくとんでもない説ではないぞ!
わたしは二人を調べていてそう感じました。
それは後日根拠を述べます。
安倍晴明の家系図や
その人生に関しては、現在宮内庁の古文書と束ねる部署に
記録が残っているようです。
それによると
平将門の子であるかは別として
きちんとした家系図が残されており
人間の父母がきちんと記されているので
母親が「葛の葉」という白狐だった説も
虚構の中だったことになります。
そして生年月日
これは少し驚きます。
(これも真実かどうかは解かりかねますが)
延喜21年1月11日生まれ(!!!)
これは西暦になおすと
AD921年2月21日(!!!)
これだけでも
「きゃ!エンジェルナンバー♪」
とかいって、小躍りしてしまいそう。
そして寛弘2年(1005年)没
こちらは唯一確定できる年代らしい。
だから2005年に没後千年ということで
一大ブームが巻き起こったらしいのです。
まだまだ調べれば調べるほど
面白い話が続々と出てきます。
続きはまた!