この日は初午の日でしたけど
建国記念日や
そして「11の日」と重なって
特別な日であったかもしれません。
人が神さまを祀るとき
その場所というのは
人の都合であちこちに変えられてしまうので
そして何を祀っていたのかも人の都合で変えられてしまうので
場所とか何の神さまとかというのも
あまり意味を持っていないのかもしれないのです。
わたしはその土地というか
磁場みたいなものをときどきですが感じることもあるので
そのような 直感めいたものを大切にしています。
この日は「北口本宮富士浅間神社」という
昨年「富士山世界文化遺産構成資産」に指定された神社にお詣りしましたが
清清しさは他に類を見ないしとっても好きな神社なのですが
その右に追いやられた感のある「諏訪神社」や
さらにその諏訪神社の元宮だと伝えられる
ヤマトタケルが祀られているといわれる
「大塚丘」が、めちゃくちゃ落ち着くのです。
いつかChiaさんとも話していて
「ヤマトタケル!」「大塚丘!!!」
気になるよね~と言っていたので
少し歩きますが、やはり今日は「大塚丘」もお詣りしましょうという流れになりました。
ところが
歩き始めて
もちろん雪がまだ解けておらず、つるんつるんの道でしたので
Chiaさんのお子さんのMクンがぐずり始めました。
小さいお子さんにこの道は申し訳なかったなあ、と思い
「いいよ、わたし一人で行ってくるよ!」と
お二人を残して
さっさとお詣りをすませようと歩き始めました。
あと二つの神社に今日は行くことになっているのです。
歩き始めて、またしても不思議な感覚、というか
言葉、というか・・・
「わたし、富士にいて、何ぼのものなんだ。」
つまり、富士にいるから価値がある、、みたいなことを急に思いました。
わたしが歩いているのは
まさに「吉田口登山道」
そのまま行けば富士山の山頂につながる道だったのでした。
「ここにいることがわたしの価値なんだ」
手早くいえばそういうことなんですが
富士山周辺のガイドなどしているので
そんなことは当たり前のことなんですが
少し違う、もっと大きな意味で、腑に落ちた瞬間だったのです。
わたしはドキドキしながら
特別な場所にたどり着きました。
そこは「大塚丘」
北口本宮富士浅間神社の以前はそこには諏訪神社が祀られており
それだけでも不思議なのに
その前は諏訪神社もここに祀られていたという、不思議な盛り土としか思えない
つまり人工っぽい丘。
ヤマトタケルが祀られているという看板がありますが
わたしには
もっともっと
古い古い起源を持つように感じられてならない。
今日もわたしが来るのを待っていた、と思うのは
いつもの幻想なのだろうか?