一番苦手な漢字の人名と、これまた大嫌いな日本史。
ましてやブシの名やブショウの名が一番嫌い。
だったはずなのに
江戸がわたしに押し寄せてくると
「徳川」をここでは無視できずに
好奇心の思うままに流れに乗っていたら
「天海坊」にどうしてもたどり着く。
苦手意識を取り払って
さても「天海坊」に向かい合ってみることにした。
「大僧正 天海」(ウィキペディアより)
天海の出自
『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高
の一族」と記されていることから、三浦氏
の一族である蘆名氏
の出自で、陸奥国
に生まれたとされる。しかし同縁起には「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。また、「将軍義澄
の末の御子といへる人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられている。
須藤光暉
『大僧正天海』では諸文献の比較検討により、蘆名氏の女婿である船木兵部少輔景光の息子であると結論づけている。
生年
天海の生年ははっきりしていないが、100歳以上の長命であったことは確かであるとされる。
小槻孝亮
の日記『孝亮宿祢日次記
』には、天海が寛永
9年4月17日
(1632年
6月4日
)に日光東照宮薬師堂法華経万部供養の導師を行った記事があるが、天海はこの時97歳(数え年)であったという。これに従うと生年は天文
5年(1536年
)と推定され、没年は107歳(数え年108歳)となる。このほか永正
7年(1510年
)(上杉将士書上)、享禄
3年(1530年
)、天文11年(1542年
)、天文23年(1554年
)といった説がある。しかしこれらは比較的信頼度が低い史料に拠っているとされている 。須藤光暉
は12種の生年説を比較検討した上で、天文5年説を妥当としている。
前半生
龍興寺
にて随風と号して出家した後、14歳で下野国
宇都宮
の粉河寺
の皇舜に師事して天台宗
を学び近江国
の比叡山
延暦寺
や三井寺
、大和国
の興福寺
などで学を深めたという。元亀
2年(1571年
)、織田信長
により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄
の招聘を受けて甲斐国
に移住する。その後、蘆名盛氏
の招聘を受けて黒川城(若松城
)の稲荷堂に住し、さらに上野国
の長楽寺
を経て天正
16年(1588年
)に武蔵国
の無量寿寺北院(現在の埼玉県
川越市
。後の喜多院
)に移り、天海を号したとされる。
喜多院住持
天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院
の住持も兼任していた。浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺
の住職忠豪とともに家康の陣幕にいたとする。これからは、天海はそもそも家康のために関東に赴いたことがうかがえる。
豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは慶長
4年(1599年
)のことである。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。慶長12年(1607年
)に比叡山
探題
執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。ただし、辻達也
は、天海は慶長14年(1609年
)から家康に用いられたとしている 。この年、朝廷より権僧正
の僧位
を受けた。
また慶長17年(1612年
)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院
と改め関東天台の本山とする。慶長18年(1613年
)には家康より日光山
貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。大坂の役
の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる。
後半生
元和
2年(1616年
)、危篤となった家康は神号
や葬儀に関する遺言を同年7月に大僧正となった天海らに託す。家康死後には神号を巡り崇伝
、本多正純
らと争う。天海は「権現」として山王一実神道
で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として吉田神道
で祭るべきだと主張した。2代将軍・徳川秀忠
の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉
に豊国大明神の神号が送られた後の豊臣氏
滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山
から日光山
に改葬した。
その後3代将軍・徳川家光
に仕え、寛永
元年(1624年
)には忍岡に寛永寺
を創建する。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道
や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。
紫衣事件
などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、大久保忠隣
・福島正則
・徳川忠長
など赦免を願い出ている。これは輪王寺宮
が特赦を願い出る慣例のもととなったという。堀直寄
、柳生宗矩
と共に沢庵宗彭
の赦免にも奔走した。寛永20年(1643年)に108歳で没したとされる。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。
墓所は栃木県日光市
。
慶安
元年(1648年
)には、天海が着手した『寛永寺版(天海版)大蔵経』が、幕府の支援により完成した。
以前、といっても昨年の12月のことなので
まだ記憶に新しいけれど
「富士の鬼門と裏鬼門」の記事で
江戸の鬼門 寛永寺と
裏鬼門にあたる 増上寺のことに触れたことがある。
こちらは富士の鬼門 「明見」の記事
http://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-11735703528.html
こちらは富士の裏鬼門 「富士宮の星山観音」の記事
http://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-11736293042.html
(こちらに書いてある星山観音「十一面観音」ご開帳の日が
三月十八日であるとのこと。
今は富士から江戸に心があるけれど
そのころには心は富士に戻ってきているのではないかしら?
2ヶ月ぶりに自分の書いた記事を読んで
そんな気がするのでした。)
今、考えてみればこの記事を書いたころから
江戸における家康と天海坊の仕組みに
すでに触れてしまったということなのかしら?
そして
父の縁の「浅草寺」
これから触れようとしている「将門の北斗七星」
そして今日アップした「五色不動」などなど
数え切れないほど「天海坊」は
今
わたしの前に飛び出してくる。
そして今日あるかたから
ソチ・オリンピックの開会式の記事で
わたしが書いたシャガールのことで
メッセージを頂いたので
わたしもシャガールが懐かしく
「上野の美術館にシャガールを見に行きました。」
という若い頃の思い出話をメールで返したら・・・
上野の美術館前方に
「天海僧正毛髪塔」があるという。
これはこれは・・・
どうやら方々で先回りされているらしい。
おそろしや。
こうなったらあまり無視は出きない。
苦手意識をとことんはずして
がっぷりと向かい合って見ようか。
天海大僧正殿と家康殿!