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「神田川」と 少し怖い「日本橋」の話

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体は富士山にあるのに

相変わらず魂は東京に戻されている今日この頃。

なにがどうしたっていうんでしょう・・・


次は神田川を調べていたら

大江戸の水巡りを魂レベルでしてしまったような・・・






「神田川」

懐かしいですね。




「あなたは もう 忘れたかしら・・・♪」




南こうせつの歌うこの哀しげな歌は

わたしのまさに青春まっさかりに流行ったのでした。




なんだか「貧」が「美」で

愛さえあれば何もいらない的な美学に捉われて

高度成長期の東京にそんな「貧」なんてあるわけもなくて

ひたすら「貧」ごっこをしていた感じだった1970年代。




新宿のわたしの実家は

当時は柏木という町名から北新宿という名に変更になってから

ずいぶん経っていた。

近くに小滝橋通りというのが走っていて

その「橋」がかかっているのが「神田上水」

何故その名がついているのかは誰も知らなくて

神田といえば、古本屋で有名な町。

中央線に乗っても20分くらいかかりそうな遠いイメージがあって

うちの近くを流れている川が、

何でその名がついているのかはわからなかったし

その歌われている「神田川」と

神田上水は同じものなのか、違うものなのか

深く考えもせずに4分の1世紀くらい費やした。




いきなり今年、2014年になってから

東京の水の巡りというか、流れが気になっていた。

友人が気になって画像を送ってくれた「渋谷川」を調べて、

それなりに納得したあとに

今度は実家の近くを流れていた「神田上水」がめちゃくちゃ気になって来た。




さて

これもディープな

水を巡るお話しに続くかもしれない。




「神田川」はもともと「神田上水」といわれていて

江戸初期のもっとも古い上水だった。

延長63Km

取水元は三鷹、井之頭池


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(江戸の井戸の頭であるということで
井之頭と命名されたという。写真は「御茶ノ水」という井之頭の湧水)


神田上水は

江戸の六上水のひとつで

古くは玉川上水とともに江戸の二大上水とされた。


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わたしが今回検索して思ったのは

「江戸を巡る水路」がおそらく風水的に素晴らしく巡らされていたのでは?

ということだった。

まるでカタツムリみたいに。

風水とまるで関係のないパリの町も

カタツムリみたいに配置されているのは不思議だ。


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そして全てが「隅田川」に注ぎ

東京湾に流れる仕組み。


それから

江戸城から五街道がスタートして

全ての道は江戸に通じる。


日光街道

中山道

青梅街道

甲州街道

東海道

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江戸の六上水というのは


亀有上水
千川上水
神田上水
玉川上水
青山上水
三田上水



東京には
この「日本橋」を筆頭にして
橋や水に関する地名がすごく多い。


御茶ノ水
水道橋
溜池
京橋
八重洲


そしてわたしたちが生まれた
新宿の淀橋も
玉川上水の水がいったん溜められたところだった。
(わたしが子供のころにはそこに淀橋浄水場があり
そのあとには現在都庁などのビル街となっている。)






そこでわたしはまたしても
水を巡る父の話を思い出してしまった。



水に関する話しがふたつだけあり
その二つの話以外父が憤ったのをみたことがない。


ひとつは「隅田川」の話し。
父が子供の頃はよく隅田川で泳いだという。


「春のうららの隅田川
上り下りの舟人が
櫂の雫も花と散る
眺めを何にたとうべし・・・」




まったくその歌の通りだったというのだ。
その話しは何度も聞かされた。
まったく東京は変わってしまった。
ほんとうに変わってしまった。

(これは昨日アップした
渋谷川の「春の小川」の話しに共通している。
東京は父の知る東京ではなくなってしまったのだろう。)



そして

亡くなる前に

父が何度も話してくれた話しで

とても気になることがある。


「日本橋の上に高速道路(首都高)が走った

どうして他を通すことが出来なったのか

東京ももう終わりだ。」



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穏やかな父にしては

これは珍しく本当に憤って

何度も何度も

その話しをわたしにしたのだった。



日本橋・・・・


そこは本当に大切な、大切な

所らしかったのだ。


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東京にとって
日本にとって

そして
地球にとっても?



ココロの旅 「最終の地」

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1990年4月

わたしたち(デザイナーのユウヤとわたし)は

秋冬コレクションの会場に

当時恵比寿ビールの古い工場があった場所を選んだ。


そこが最後の場所となったことを

わたしたちは気付くはずもなかった。

その時は。

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それはどなたかが教えてくれた場所で

都市開発で、そこは新しく生まれ変わってしまうので

最後のチャンスなのだと聞いて見に行った。


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見て、すぐに決めた。

レンガ造りのそのすでに廃工場となったそれは

次のコレクションの会場に相応しいように思えた。





もう

「飯倉800」とか

「芝浦の再開発展示場」とか

出来合いのコレクション会場には飽き飽きしていたところだったから。





(そこはその次の年かそのまた次の年くらいには

恵比寿のガーデンプレイスとしてオープンしたけれど

まるで地方都市のショッピング街のようだった。

古い物以上のものは人間は作れないのだと今思う。)





あの

代官山の同潤会アパートも

原宿の同潤会アパートも

同じくらいに相次いで姿を消したけど

古きよき時代のものはそれなりの価値観の具現化した象徴であって

いくら新しい若い人がデザインしたとしても

それ以上のものは作れないというのはどういうことなんだろう。




もっともこれは価値観の違いであって

新しいほうが良いとする価値観も確実にあるはずである。




わたしは1990年の

結果的に最後のコレクションとなった

伝説ともいえる

「1990~1991 MBコレクション」のことを書きたかったのに

なんだか「恵比寿」の昔の風景に捉われてしまって

先に進めなくなってしまった。




これはどういうことなのだろうか。





ここのところずっと

何かに書かせられているようなのだ。

わたしはこの記事を書くために

あの場所の古い写真がないかと検索をしたが




さらに古い古い

江戸時代の恵比寿の様子を描いたものを見つけてしまい

絶句して

これ以上記事を書く気を喪失してしまった。


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江戸時代の恵比寿のここから

(現在の恵比寿駅西口)

富士を見た場面!





わたしを呼んでいるのは

どうやら

「江戸」であるらしい。


そして

江戸時代の富士と江戸の関係?


繰り返し繰り返し夢にでてくる

「槍ヶ崎交差点」には

目黒富士と呼ばれる

「富士塚遺跡」があるのだから。











富士の龍脈と 江戸の結界

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江戸時代が何故

300年も安穏と続いていたのか

実は江戸という町をつくるのに

たくさんの仕掛けを施していたという話しがありますね。



わたしも昔はそんな都市伝説的な話しが大好きで

「加門七海」大江戸魔方陣などの著書に

はまっていたこともあります。

それこそ20年も前の話です。




でもそれはただの都市伝説だったのでしょうか?



わたしの中で急速に

それらが音を立てて

浮上してきています。



何故?

なんのために???






今朝の話から始めます。





また、たくさんのなんだかが押し寄せて

朝から頭がごちゃごちゃしています。




朝、最初に行なったことは

ベッドの中で

「広重 目黒富士」で検索をしたことでした。




でもそこで

わたしは大変な思い違いをしていた。




昨日わたしがココロの旅の続編を書こうとして

たどりついてしまったのは

恵比寿の古いビール工場で検索した画像の中の

広重の富士でした。




ずっと頭にあったのでしょう。




ところが朝検索したのは

「目黒富士」

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東京の山手線では

恵比寿と目黒はお隣ですが違います。

恵比寿からの富士(江戸時代)と思って

わたしは目黒で検索してしまったのです。




そうしたら

「目黒新富士」とか「目黒元富士」が出てきました。

もちろん広重が200年前に描いたそのころの風景です。




「富士塚」のことをここで説明しなくてはなりません。




富士塚というのは

江戸時代に流行した、富士山を模した塚です。

富士山にいけない女性や体の弱い人でも

山頂に行くのと同じ功徳が得られるようにと

おもに江戸の「富士講」が建設した人口の盛り土です。

そこからは富士山を拝することが出来て

そこに富士溶岩を配置した。

胎内洞窟なども同じように摸していたりして

江戸時代のパワースポットのような位置づけがされていたのです。




わたしが富士塚を知ったのは

20年ほどまえ

たまたま「目黒区美術館」で

「目黒富士遺構」の展示をしていたのです。

地図に載っていた「富士塚」は

元富士も新富士も、とってもなじみのある場所だったのです。

元富士は、目黒駅のそばに住んでいたときのマンションの近く。

新富士は槍ヶ崎交差点の、いつも目黒でいちばん早く桜の咲く

お花見ポイントの近くでした。

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「へええ~。

富士塚だなんて面白い!」




そのころは富士山に移住するなんて

露ほどにも思いませんでしたが

日本人であれば誰だって、富士山が気になります。

まして、目黒のマンションは

「お風呂場から富士山が見える」が売りだったんです。

代官山、というより青葉台と南平台の交差点そばの

わたしが通っていた会社も

屋上から富士山が見えるのが売りだったのですね。




関東地方を中心に作られた

いわば人工の富士山に興味をもち

図書館で本を借りて分布地図などを見たら

またまたびっくり!

わたしが七五三に行った新宿は青梅街道のそばの

「成子天神」にも成子富士なるものがあり

小さい頃、その人工の盛り土に登って遊んだ記憶があり!

ひゃあああああ!うっそ~!!!

などと驚き、楽しんだのでした。

その後富士山に移住してからは

「やっぱりわたしは富士山にご縁があったんだ。」

などとひとりで悦に入っていたのです。




でも

今回は何かが違う。

何が違うんだろう。




「江戸の富士塚」

それも大切なキーワードだ。




でも

何故わたしは「恵比寿」と「目黒」を間違えたのだろう。




まてよ。

広重の頃には

恵比寿という地名はない。

何故なら、もともと「下渋谷村」とか「三田村」とか言われていた場所に

明治20年になって

麦酒工場ができて、その銘柄が「ゑびす麦酒」だったために

恵比寿という駅が出来たんだから。




一方

「目黒」は江戸時代の初期からその名がついていた。

何故なら

目黒不動・・・

天海坊の張り巡らした

「五色不動」という結界の

一番重要な?




目黒不動・・・・

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わたしはここで

すごいことを思い出してしまった。




あの

地下鉄サリン事件が起きた1995年。




天河で知り合った

修験道者の「明鏡」さんと会った。

彼女は




「地下鉄サリン事件でオウムに江戸の結界が破られた。

今は五色不動のご神業で忙しい。」


話しでくれたのだった。




「五色不動」・・・・。







なんだかどんどん話しが飛んでいきます。

もうしわけない。




でもなんだか心がはやります。




富士塚の話しから

五色不動へ

江戸の結界へ・・・。





何故

この話?




ココロの旅 「地球意識」

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最後のコレクション





1990年

恵比寿駅の旧恵比寿麦酒の工場跡地で

古いレンガ造りの建物の中

MB秋冬コレクションが行なわれた。





話しはその数年前に遡る。




198X年のファッション界を激震させたあの

TK事件(これは本当に日本アパレル年鑑でそう表記された)

未曾有のヘッドハンティング事件。




TK先生は日本のデザイナーズアパレルの雄

それが大手アパレルメーカーに引き抜かれたのだった。


それは

蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。

TK先生のアシスタントだったユウヤも

プレスだったわたしも

その蜂の巣のなかに巻き込まれていたのだった。




誰がついていくだの行かないの

同じ企画室やパターンナーの中でも

疑心暗鬼に陥っていた。




NO1アシスタントは誰なのか?

それは企画室の中でも確執があったようだ。

でも、誰の目からみても

ユウヤが一番可愛がられていた。




のちにTK先生はこう語った。





「ゆうちゃん、来てくれると思ってたんだよ。」


その言葉を聞いて

ユウヤとわたしは泣いた。

泣いた、泣いた、泣いた。


行きたくても行けなかったユウヤ。

絶対行かせたくなかったわたし。

わたしのせいで、その会社に

ユウヤは残ってくれたのだった。

わたしだけではない。

若いアシスタントたちとみんなで

下北沢のユウヤのうちに行って

明日先生に会うんだとうユウヤを引き止めたのだ。




引き止めた以上は

若くしてトコロテン的にチーフデザイナーとなったユウヤを

みなで絶対に盛り上げようという機運があった。


そしてわたしも

TK先生についていった上司の後釜で

若くしてプレスチーフになってしまったので

皆で

この傷を回復させてまたメンズファッションの雄として返り咲こうと

心をひとつにして邁進していくしか道は無かった。




わたしたちに「洋服とは何たるか」を教えてくれた

TK先生を師と仰ぎつつ

それを忘れまい

しかし新しいMBを作らなくてはならない。

ユウヤのMBを。


そのころはがむしゃらで突っ走った。

突っ走った挙句の

その最後のコレクション。





1990年4月。




数年前から

コレクションはメッセージ性が強くなっていった。




1989年のコレクションでは

ユウヤは「アジア人のモデルだけでショーをやりたい」と言い出して

素人モデルを30人も集めた。

そしてそのテーマは

「Untinuclear」すなわち「反核」だった。

広島出身の彼の希望だった。


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結果的に最後のコレクションとなった

1990年は

「アースコンシャス(地球意識)」だった。





それをどのように表現するか?

ファッションショーで?





大きな大きなテーマに

わたしたち皆で挑んだ。

何かとてつもなく大きなものに向っていた。


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ソチ 開会式で福島に地震!

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日付変更線を越えていたので今朝というのかしら

ソチの冬季オリンピック開会式を見ていました。


冒頭の少女が誘うロシアの自然や歴史はたいへん美しくて

見入っていました。


ところが日本人選手団の入場のタイミングで

TVの画面の上部に地震速報が


福島浜通りを震源地とするM5の地震発生!

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すごいタイミングでした。


福島のこと
日本は、世界は
忘れてはいけないよ。


まったくそのようなメッセージに思えました。






あの開会式はまた別の面では
わたしに少女のころの淡い思い出を思い起こさせました。




マルク・シャガール
この名を久し振りに聞きました。
少女のころ大好きだった画家


シャガールはロシア人だったのですね。


久し振りに彼の絵を見てみました。
ネットの世界は便利ですね。




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きっと
そんな風にして
どんなものにも意味があって


この開会式は
福島と シャガール
全ぜん別々のふたつの記憶を
わたしに呼び覚ましたのでした。


現実の世界と
夢の世界かな。

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大雪に閉じ込められて

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朝からたいへんです。


午後に予定されていた

環境科学研究所のセミナー

「富士山の地下水と富士五湖」は

大雪のため

来週に延期との連絡がありました。


来週では

わたしは行けません。

興味があるテーマだったのに

残念!


と思えば

今度は町役場より連絡あり


明日の「ネイチャーガイド研修は延期」

清里のキープ協会に行く予定になっていたのです。


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そうこうしているうちに
雪はどんどん降ってくる
ベランダを見たら
すでにホーップクリームみたい
推定60cm。




雪に閉じ込められて
TVでソチを見ていた。


唯一の喜びごとは
スノーボードスロープスタイルで
若干17歳の角野くんが
八位に入賞したこと!




昨日の開会式の冒頭にでてきた
「トロイカ」
三頭だての馬車のことだと始めてしった。


午年に相応しくて
綺麗だったな・・・
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トロイカよ
おうちまで迎えに来ておくれ・・・。


外を見るのが怖い。
明日の朝までにどのくらい積もっているのかな?


ココロの旅 「バブルの夢と嘘」

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1990年6月30日

ユウヤとわたしは会社を辞めた。


その日はどこでだったかは忘れたけれど

会社が開いてくれた「送別会」が壮大に行なわれて

朝まで飲んで踊って

たくさんの花束をわたしたちはもらった。


それは

新しいステージに明日から向うという

最後の日となった。


そのあとふたりで起業して

それは2002年まで続いた。





この話しを書こうとして思い出しだことがある。





そのきっかり12年後

つまり2002年6月30日

現在の彼とわたしはそのころ経営していたカフェをクローズして

富士山に移住するとして

さよならパーティを自分たちのカフェで開いていた。


そこにはユウヤやミミや

たくさんの懐かしい人たちの顔があった。





午年はわたしは新しいことを始める年だというのは

それだけ重なると

ジンクスのように思えてきた。





2014年6月

わたしは何を終わらせ

何を始めるのだろうか。





1990年にわたしたち

チーフデザイナーのユウヤとチーフプレスのわたしが辞めたのは

クリエイター側と 営業側(経営側)との価値観の相違が原因だった。





「いい物を作りたい。」というクリエイターと

「売れるものを作ってほしい」という経営側。




「良いものは売れるはず、そういう世界にならなくてはいけない」というクリエイターと

「売れるものが良い物だ。社員100人の家族の運命がかかっているのだ。」という経営陣と・・・。




これはまったくの平行線で

混じるわけものない。





ファッションの世界だけではない。

広告の世界、音楽の世界、美術の世界、料理の世界・・

はては出版の世界でも

この確執はいくらでも見られたのだと思う。





ファッションにメッセ-ジ性を付加してしまったユウヤは

正確にいうと彼とわたしは

会社の中で「浮いた」存在となってしまい

結果的に反省会となった「コレクション事後会議」の中で

「メッセージを訴えたいなら

ふたりでやってくれ」と言われてしまったのだ。




わたしたちは覚悟を決めた。




ふたりでやろう。




起業するんだ。





わたしには父の遺産があったし

ユウヤは年齢のわりには高額の退職金がでるはずだった。





「やろう、やろう!」




まったく若いということは怖いものなしだ。





そのころ

目黒で同居していたSは

まったく同じことで悩んでいた。




「クリエイターはいいものを作りたい。

でも会社は売れるものがいいものだという。」




それは本当に、本当によいものを作りたいと思うクリエイターには

辛いことである。




わたしたちが会社をやめて起業したことは

たくさんの他の回りのひとたちに勇気を与えたと思う。

少なくとも、一瞬でも

夢を見ること。

それを皆が共有したのだから。





ある日

京都から帰ってきて

Sが言った。




「会社、辞めようと思うんだけど。」





「いいじゃない?」





わたしは彼、Sに言った。





「会社は辞めるためにあるものだよ。」





その次の日

Sは17年勤めた会社に辞表を出した。





しかし

バブルが音を立てて崩壊するその年に

なんだってこんな大きな変化の波の中に

自ら飛び込んでしまったのだろうか。

わたしたちはなんだって

そんなに怖いもの知らずだったのだろう。


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(写真はユウヤと現在の彼女、その友人夫婦
今年のダイアモンド富士もみんなで眺めた。)



だけど

今考えても

ひとつも後悔していないわたしたちが確かにいる。


それは本当に不思議なことだ。


やはり全ては必然だったんだ。





浄化の雪となるか?東京45年ぶり

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河口湖は

積雪62センチ


さあこれから雪かきだ!

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45年ぶりということは
美濃部都政だった頃ですね。


これは縁起がいい!


今日は9の日


9と言えば憲法第九条


押し付けられた憲法。
確かにそうかもしれないけど

「永久に戦争を放棄する」
この一行は日本の誇り。



昔は憲法第九条Tシャツを友人とコラボして作っちゃった。



都知事選はこれからの日本の方向も決める大切なこと。


わたしは富士に祈ることしか出来ないけど


この星に真の平和が訪れますよう。
どこであれ、都であれ、島であれ
そこに向かうリーダーを
私たちは選びますように。


富士さま
お願いします。

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銀龍ちゃん、脱出作戦

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おおおおお~

なんということでしょう!


たどり着くことも

ままならず・・・



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この白いお布団を被った物体は・・・


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前からみるとまるで「かまくら」のようですね。


この下にわたしの銀龍ちゃんが埋もれているのです。




さあ
雪掻き
雪掻き
雪掻き・・・・



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この下から
銀色の体が出てきたときは
嬉しかった!


今日は富士さまにずっと御願いごとをしながら
雪をかいていたのです。


小さな結晶がキラキラして
わたしはそれをひとつひとつが
生きとし生けるものの命だと思いながら


シャベルで、すくった

「一すくいごとに」と書こうとしたら

「人救い」と変換された。

人だけじゃない
あらゆる命を救う


すくう・・・すくう


そうすると
なんとなく頑張れてしまった。


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やっとお顔が出たときは嬉しかった!


彼女(彼?)がいなければ
どこにも行けないのだもの。


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昨年の7月に生まれたハッピーは
初めてみる雪に目を白黒???




わたしの祈りは通じただろうか?




あああ
腰が痛いよ~。

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諦めないこと

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ほんとうに未来は作れるのかしら?


今日の今の一瞬で

未来は決められると信じたいけど


遠回りすることもあるかもしれないし


一番してはならないのは

諦めてしまうことかもしれない。


「ほら

やっぱり未来なんて作れないんだよ」


そんなことはないよ。


いっぱい

いっぱい

回り道をしよう。


でもどこかで心の根っこみたいなものを

ちゃんと持っていようね。



諦めないでいよう。



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 「五色不動」の またまたのたまたま

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1995年

地下鉄サリン事件が起きたとき



明鏡さんが

「オウムに江戸の結界が破られた。

今は五色不動のご神業で忙しい。」

といわれたのは

どういうことだったのか?



当時はあまり気とめなかったその言葉。



五色不動の結界ってなんだろう?





加門七海の大江戸魔方陣や

あとで詳しく述べるが

将門の北斗七星のことは知っていたけれど

そのとき

「五色不動」は聞いたことがあったかもしれないけど

それほど重要なものとは思っていなかった。



江戸の「五色不動」なるものがあって

目黒と目白は山手線の駅ともなっているので有名だけど

他にも

目赤、目青、目黄があって

徳川家光が、例の天海坊の建言により

天下泰平を祈願したといわれているらしい。


もっともこれには諸説あって

もともとあった場所から位置が変わってしまっていたり

明治や大正になってからの

あとから名付けられた説もあって

こちらも都市伝説の範囲を出ないのだけど。




なにしろ面白いし急に思い出してしまったので

参考までに記してみることにする。



五色不動(ごしきふどう)は、五行思想五色 (白・黒・赤・青・黄)の色にまつわる名称や伝説を持つ不動尊 を指し示す総称。東京江戸 )のものが有名であるが、厳密には四神 や五色に関連する同様の伝説は各所に存在し、それが不動尊と関連付けられたものを五色不動と称されることがある。なお、本項では主として東京の五色不動について解説する。

東京の五色不動は、目黒不動目白不動目赤不動目青不動目黄不動 の5種6個所の不動尊の総称。五眼不動、あるいは単に五不動とも呼ばれる。


五色不動は江戸五色不動とも呼ばれており、江戸幕府 3代将軍徳川家光大僧正天海 の建言により江戸府内から5箇所の不動尊を選び、天下太平を祈願したことに由来するなどの伝説が存在する。史跡案内など多くの文献ではこのような説話に倣った由来が記述されているが、資料によっては伝説の内容にばらつきも見られる。

一方で五色不動を歴史的に研究したいくつかの報告によると、実際に「五色不動」という名称が登場するのは明治 末または大正 始めであり、江戸時代 の史実とは考えにくいとしているが、伝説自体は江戸時代から伝わる噂話に原型が見られるという。

また名称を別とすれば個々の寺院や不動像自体は江戸時代(以前)からの歴史を持つとされる。特に目黒不動・目白不動・目赤不動については江戸時代の資料からもその名称が確認でき、江戸の名所として「三不動 」の名で知られる1 2


http://www.kankou.kotomeguri.com/tokyo/seven/goshiki.html




目黒不動だけは連れて行かれたか

自分で行ったのかは忘れてしまったけど

行ったことがある。


何しろそこの名は

「龍泉寺」というのだから。


天河に足げく通っていたころだから

その名は印象に残った。

(天川村も大峰山龍泉寺)


独鈷の滝という湧き水あり。


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目黒に住んでいたころだ。

タイとかネパールに行くと龍だらけで

龍をモチーフにしたTシャツやアクセサリーをコレクションしていた。

Sもわたしもそれを「ドラゴン物」と呼んでいた。


だから

目黒不動のことは

よく覚えている。




だからどうなの?的なことなのだけど


「たまたま」のchiaさんが驚いてメッセージをくださった。


「目黒郵便局の近くに住んでいたので

たまたま昨日、目黒不動や大鳥神社の話しを友人にしていて

目黒不動の夢まで見てしまったんです。

そうしたらそちらの記事に出ていて

シンクロです!

びっくりしました!」


これはどのように説明がつくのだろうか?


またまた

「たまたま」に導かれてしまうのだろうか?


続きます。

ミミと「鳩森八幡の富士塚」

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さて

ここのところ

江戸と富士の関係がとても気になっています。


江戸時代には富士山信仰は黄金時代を向かえて

富士講という富士山信仰のもとに

関東地方の富士山が見える場所を中心として

たくさんの富士塚が築かれました。


http://www7b.biglobe.ne.jp/~fujisan60679/tokyo.html


来週はミミの十二年ぶりの御誘いで

東京に行くことになったので

またあの若くて毎日夢中に生きてきた時代のことを

思い出してしまいました。


それでは以下は

ココロの旅的

回想録となります。

(それが富士塚とリンクしてしまうのです。)





1980年代に

スカバンドをやっていた当時の遊び仲間のまっちゃんの家が

現在は代官山にあり

そこに西麻布のイベントを主催するヒロが泊まるということで

(イベントは2月15日)

わたしは15日にはとても行けないので

16日にみんなで代官山にランチをしましょうとなった。


それは来週にせまっている。


「スカ」というのはあのころみんながはまっていたリズムだった。

ジャマイカ由来の1960年代にイギリスで進化した音楽で

いわゆる

「ンチャ、ンチャ、ンチャ、ンチャ」というツービートのリズムだ。

このリズムを肩でとるのか

腰でとるのかでダンスは大きく異なる。

他のダンスもそうだけど

白人は肩でとり

黒人は腰で取るものだから

一緒に踊ると

ヒロがよく嘆いていたことには

「オレが沈むと、みんなが上がるんだよねえ~」

それでも1拍違えばそれですむのに

大概は半拍ずれていく。


あららら

話しがまた暴走していってしまった。



何が書きたかったのかというと


20代のわたしは若くして離婚して

新宿の実家にもどらずに、

原宿で2年、青山で2年

一人暮らしをした。


そのころ

千駄ヶ谷に住んでいたミミとは

一番仲がよかった友人だったかもしれない。

ミミは料理が上手で

よく日曜日には「うちでご飯食べない?」と

ユウヤやヒロやわたしが集まってご飯をいただいた。



今日、富士塚が気になって

検索をした。


そうしたら!


江戸の中で一番古い富士塚が

なんとこのミミの家のそばの

「鳩森八幡の富士塚」だったのだ。



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http://www.hatonomori-shrine.or.jp/index.php?id=74


しかも八幡神社としての創建は貞観2年。

平安時代の初めころ

富士山貞観噴火よりも四年前ということだ。


そして現在は東京の富士山といて

パワースポットになっているらしい。



もちろん当時「スカ」なんかで踊っていたわたしたちは

「富士塚」なんて興味があるわけはない。

富士山にさえ興味は無かった。


しかし

これもなにかの提示のように思えてきた。


江戸で一番古い「富士塚」鳩森八幡

ここも次の江戸めぐりに入れる必要があるかもしれないな・・・


なんとなく

そんなことを思った。


またまた

暴走というか

爆走をしそうなわたしです。




富士塚とは 江戸時代に浅間信仰の信者が富士講社を作り、江戸庶民の間に富士山信仰が爆発的に広がり、江戸八百八講と言われるほど増えていきました。


もう一度

富士塚を調べなおそうかな。



都知事選を終えて 姉のコメント

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昨日の都知事選挙が終わり、

一夜明け

東京の姉から

メールが入っていた。




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(湖畔の遊歩道は雪に埋もれていて
富士山を見ながらのワンコ散歩はまだ無理)



残念でしたね。

でも

「悪は多けれども

一善に勝ることなし」


(トップ当選した人は)

相が悪いものね。

天下は長く続かないでしょう。


相とは人相のことでしょうか?

父と同じところを見るなあと

可笑しくなってしまった。


やっぱり親子ですね。


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もうこれ以上はいけないよ。


彼の名は「Peace」
ここでステイをしてね。



とりあえず
時期を待ちましょう。

家康と天海坊の「江戸の都市計画」

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一番苦手な漢字の人名と、これまた大嫌いな日本史。

ましてやブシの名やブショウの名が一番嫌い。


だったはずなのに

江戸がわたしに押し寄せてくると

「徳川」をここでは無視できずに

好奇心の思うままに流れに乗っていたら

「天海坊」にどうしてもたどり着く。

苦手意識を取り払って

さても「天海坊」に向かい合ってみることにした。



「大僧正 天海」(ウィキペディアより)

天海の出自

『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高 の一族」と記されていることから、三浦氏 の一族である蘆名氏 の出自で、陸奥国 に生まれたとされる。しかし同縁起には「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。また、「将軍義澄 の末の御子といへる人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられている。

須藤光暉 『大僧正天海』では諸文献の比較検討により、蘆名氏の女婿である船木兵部少輔景光の息子であると結論づけている。

生年

天海の生年ははっきりしていないが、100歳以上の長命であったことは確かであるとされる。

小槻孝亮 の日記『孝亮宿祢日次記 』には、天海が寛永 9年4月17日1632年 6月4日 )に日光東照宮薬師堂法華経万部供養の導師を行った記事があるが、天海はこの時97歳(数え年)であったという。これに従うと生年は天文 5年(1536年 )と推定され、没年は107歳(数え年108歳)となる。このほか永正 7年(1510年 )(上杉将士書上)、享禄 3年(1530年 )、天文11年(1542年 )、天文23年(1554年 )といった説がある。しかしこれらは比較的信頼度が低い史料に拠っているとされている 須藤光暉 は12種の生年説を比較検討した上で、天文5年説を妥当としている。

前半生

龍興寺 にて随風と号して出家した後、14歳で下野国 宇都宮粉河寺 の皇舜に師事して天台宗 を学び近江国比叡山 延暦寺三井寺大和国興福寺 などで学を深めたという。元亀 2年(1571年 )、織田信長 により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄 の招聘を受けて甲斐国 に移住する。その後、蘆名盛氏 の招聘を受けて黒川城(若松城 )の稲荷堂に住し、さらに上野国長楽寺 を経て天正 16年(1588年 )に武蔵国 の無量寿寺北院(現在の埼玉県 川越市 。後の喜多院 )に移り、天海を号したとされる。

喜多院住持

天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院 の住持も兼任していた。浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺 の住職忠豪とともに家康の陣幕にいたとする。これからは、天海はそもそも家康のために関東に赴いたことがうかがえる。

豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは慶長 4年(1599年 )のことである。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。慶長12年(1607年 )に比叡山 探題 執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。ただし、辻達也 は、天海は慶長14年(1609年 )から家康に用いられたとしている 。この年、朝廷より権僧正僧位 を受けた。

また慶長17年(1612年 )に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院 と改め関東天台の本山とする。慶長18年(1613年 )には家康より日光山 貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。大坂の役 の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる。

後半生

元和 2年(1616年 )、危篤となった家康は神号 や葬儀に関する遺言を同年7月に大僧正となった天海らに託す。家康死後には神号を巡り崇伝本多正純 らと争う。天海は「権現」として山王一実神道 で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として吉田神道 で祭るべきだと主張した。2代将軍・徳川秀忠 の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉 に豊国大明神の神号が送られた後の豊臣氏 滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山 から日光山 に改葬した。

その後3代将軍・徳川家光 に仕え、寛永 元年(1624年 )には忍岡に寛永寺 を創建する。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道 や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。

紫衣事件 などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、大久保忠隣福島正則徳川忠長 など赦免を願い出ている。これは輪王寺宮 が特赦を願い出る慣例のもととなったという。堀直寄柳生宗矩 と共に沢庵宗彭 の赦免にも奔走した。寛永20年(1643年)に108歳で没したとされる。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。

墓所は栃木県日光市

慶安 元年(1648年 )には、天海が着手した『寛永寺版(天海版)大蔵経』が、幕府の支援により完成した。




以前、といっても昨年の12月のことなので

まだ記憶に新しいけれど

「富士の鬼門と裏鬼門」の記事で

江戸の鬼門 寛永寺と

裏鬼門にあたる 増上寺のことに触れたことがある。


こちらは富士の鬼門 「明見」の記事

http://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-11735703528.html


こちらは富士の裏鬼門 「富士宮の星山観音」の記事

http://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-11736293042.html


(こちらに書いてある星山観音「十一面観音」ご開帳の日が

三月十八日であるとのこと。

今は富士から江戸に心があるけれど

そのころには心は富士に戻ってきているのではないかしら?

2ヶ月ぶりに自分の書いた記事を読んで

そんな気がするのでした。)





今、考えてみればこの記事を書いたころから

江戸における家康と天海坊の仕組みに

すでに触れてしまったということなのかしら?


そして

父の縁の「浅草寺」

これから触れようとしている「将門の北斗七星」

そして今日アップした「五色不動」などなど

数え切れないほど「天海坊」は

わたしの前に飛び出してくる。



そして今日あるかたから

ソチ・オリンピックの開会式の記事で

わたしが書いたシャガールのことで

メッセージを頂いたので

わたしもシャガールが懐かしく

「上野の美術館にシャガールを見に行きました。」

という若い頃の思い出話をメールで返したら・・・


上野の美術館前方に

「天海僧正毛髪塔」があるという。


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これはこれは・・・


どうやら方々で先回りされているらしい。


おそろしや。


こうなったらあまり無視は出きない。

苦手意識をとことんはずして

がっぷりと向かい合って見ようか。



天海大僧正殿と家康殿!







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今日 2月11日は「初午の日」

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初午とは(ウィキペディアより)

二月の最初の午の日。

稲荷社の祭りであり

初午祭に初午詣(福詣)をする参拝者が訪れ

これを雑節のひとつとすることがある。

稲荷社の本社である伏見稲荷神社のご祭神・宇迦御霊神が

伊奈利山へ降りた日が和銅年2月11日であったとされ

この日が初午であったことから、全国で稲荷社を祀る。

この日を蚕や馬、牛の祭日とする風習があり、

江戸時代には、この日に子供が寺子屋へ入門した。


今朝

友人のK子さんからのメッセージが届いていました。

昨日わたしの記事を見て驚いて

「去年、江戸鬼門の寛永時と裏鬼門の増上寺に行きましたよ!」

というのです。

わたしのほうこそびっくりして

どうして?というわたしの問いには

「たまたまなんです。

同じですよ、たまたまなんの力か・・・」

そのあと

「あ、今日は初午で、近所の神社で餅つきがあります」

(彼女は東京に住んでいます)


唐突に送ってきました。

初午かあ・・・!

今日は大雪のため、大室山の下見に行くはずだったけど

来週に延期になって

丸一日空いています。

「わたしもどこかへ行ってみようかな・・・!」

そうだ

こんなときは元祖「たまたま」のchiaさんに連絡してみよう!

というわけで

午の年の初午の日

浅間神社その他に行くことになりました。

北口本宮浅間神社には稲荷社があるのです。

そして一箇所

Chiaさんが行きたいというまたまた謎?の神社。

行ってきます!


(K子さん、教えていただいてありがとうございます!)


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わたしを呼んだもの その一

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初午だ!

初午だ!


さあ
お稲荷さんへ行こうかな?


そう思っていたものの
富士山北麓にお稲荷さんは
すごく少ないのです。
何故なら
お稲荷さんは
稲成りの神、つまり穀物神。
昔から富士山の溶岩だらけの土地では
田圃も畑も出来なかった。
だから
山仕事の神の山神社や
お蚕さんや機織りの神社が多いのです。


でも
富士山の神さま
浅間神社の境内には
末社として稲荷社が祀られているので
chiaさんとわたしは
富士吉田市にある
北口本宮富士浅間神社に行くことにしました。


待ち合わせはいつもの
Jマート。
この時、富士山上空の
雲がすごい!

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浅間神社についたら
ダイアモンドダストのように
キラキラ雪が溢れて来て


すごく綺麗!

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まず順序として
浅間さまにお参りですよね!


お稲荷さんの赤い旗を横目で見つつ
改修中の大鳥居に向かいます。

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左右の狛犬さん!
ピラミッドみたい!

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そして
手水舎の龍さん
相変わらずの男っぷり。


この時は
まだ
初午!初午!と
浮かれていました。

このあとに
本当にわたしたちを呼んだものの本質に
気がつくことになるのです。


わたしを呼んだもの その二

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見て!

すごい雲!とchiaさんが叫んで

本殿の上を指差します。


なんだか不思議なお顔がたくさんあるような

久し振りな感じの雲たちです。


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最初からチビちゃんのMクンは
右側にある諏訪神社のほうに行こうとしたのです。


ダメダメ、こっちが先だよ。

大人たちは、そういって浅間神社の本殿に先にご挨拶。


もともとはここは諏訪ノ森といい
諏訪神社が最初にあったので
Mクンはた正しいのですよ。
でも今は大人の事情で
浅間さまがさきなんです。


次に諏訪さまにご挨拶を。


途中で「吉田口登山道」の富士山鳥居をクロスすることになります。
昨年の6月30日
「富士山御道開き」でタジカラオが綱を切った
あの道です。
富士山山頂に続く道!


このとき
なんだかわからないものが
胸の中に去来しました。


富士山!


ここを左に行けば
富士山頂!!!




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この道!
この道をまっすぐに行けば
富士山の山頂に行くのです。

感無量な感じになってきました。

愛おしい愛おしい富士山・・・


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次に
諏訪神社にお詣りしたときに
はっきりと
わかりました。


そうだ。

「江戸へ行く前に
ここに来なさい」


わたしのいかにも好きそうな「初午」は
つまり、なんというか・・・


ここに導くための
「キーワード」


そうだったんですね・・・・。


参りました。


そしてここでは終わらない。


江戸に行く前に
わたしを呼んでいるところはまだまだあったみたい。


それにはchiaさんは
ものすごい役割を担っているみたい。





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