「春の小川はさらさら行くよ・・・」
小学校唱歌にも歌われたこの歌は
昔々(と言っても明治時代の)渋谷川の支流
「河骨川」のようすを歌ったものだったそうです。
渋谷川で検索したら
「春の小川」の流れをめぐるフィールドワーク:里川文化塾」
というのひヒットして
2月5日10時から、となっていた。
わ!今日だ!!!
慌てもののわたしはこの偶然に小躍りしたけど
一昨年2012年の2月5日に行なわれたようです。
それにしてもこの日付の一致はすごい!
作詞の高野辰之氏は当時 東京府豊多摩郡代々幡村に住んでいて
1912年にこの歌がつくられたといいます。
そして
渋谷川の上流は
わたしの想像通り新宿の湧き水でしたが
十二荘ともうひとつ
どうも朝から気になっていた「新宿御苑」もその水源となっていました。
そのほかにも
玉川上水や、利根川の上水も渋谷川に流れ込んでいるようです。
新宿には神田上水が流れていますが
これが利根川のものなのかも調べたくなりました。
2012年2月5日に行なわれたフォーラムには
いくつかの興味を引く記事が報告として出ています。
このフォーラムでは
「春の小川は何故消えたか」を書かれた田原光奉氏がレクチャーをされたようで
ぜひ聞いてみたかったと残念ですが
一昨年であればわたしは渋谷のことにまったく興味をもたなかったのでしょう。
なぜ、いま
色々なひとたちが渋谷に意識がいってしまうのだろう・・・
もしかしたらの妄想に過ぎないかもしれないけれど
「東京の水の流れ」
レイラインに関係のあるそこに大きな問題があるからなのではないか
先日からずっと何かに駆り立てられるように
その水の流れを追ってしまいます。
「「春の小川の流れをめぐるフィールドワーク:里川文化塾」報告より転載」
渋谷川の概要
田原さんは生まれも育ちも渋谷で、職場の白根記念渋谷区郷土博物館・文学館まで徒歩通勤という筋金入りの地元人です。渋谷川への愛着が嵩じて、『「春の小川」はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史』(之潮 2011)を昨年5月に上梓されました。
「渋谷川ー古川は、全長約10kmで、天現寺橋より下流は古川と呼ばれ、渋谷川の上流部は穏田川とか余水川などと呼ばれていました。天現寺橋が境となったのは、ここがかつての東京市の内外の境界だったからです。
今でこそ大都会の中を流れる渋谷川ですが、江戸期の地図をみると、渋谷川は江戸と郊外の境界、古川は江戸の市街地内を流れていて、違う性質の地域を流れていたことがわかります」
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渋谷川の水源
「別名、余水川と呼ばれたのは玉川上水の余り水を流していたからで、渋谷川に多摩川の鮎が泳いでいた時代もあります。谷が浅い源流部では、大名の別荘に取り込まれ、庭園づくりに利用されました。水源の一つは新宿御苑の中にある玉藻池。江戸時代に高遠藩内藤家の中屋敷だった場所が1879年(明治12)宮内省(現・宮内庁)の管理になり、のちに新宿御苑となりました。水源を庭園に持つというのは、山の手の河川の一つの特徴です。
玉藻池は敷地が今も変わらず庭園として利用されたことから残されましたが、広島藩浅野家の下屋敷にあった鐙(あぶみ)の池は、表参道をつくる際に埋め立てられてしまいました。
天龍寺の弁天池からの流れも、玉藻池に入っていました。ですから、渋谷川の水源は、玉川上水と玉藻池、天龍寺の弁天池が主なものとなります」
用排水路と水車利用
「古川になる天現寺橋から下流は舟運利用もあって、川幅が広く、流れも緩やかです。それに引き換え上流部は、谷戸の中に幾筋もの小さな流れがあって、田んぼに使う用水路・排水路として利用されました。地図は省略されることがあるので、川筋が1本の線で描かれてしまう場合がありますが、実際は細い谷戸の中にも複数の水路がつくられて、1本は排水路、他方は用水路として使われることが多かったんです。
また、1909年(明治42)の1万分の1地形図を見ると、川沿いの分流の上や岸に建物が描かれています。これは水車小屋。当時、流域で生産された米や麦の精米・精麦に水車が活用されていました。現在、東急東横線ホーム下の東横のれん街になっている辺りにあった水車小屋でも、明治30~40年代までは水を堰上げて水車を回していたんですよ」
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上水から引かれた川
「水源の一つに玉川上水がある、と言いましたが、三田用水からも水が入っています。1909年(明治42)の1万分の1地形図を見ると、今の渋谷区立鍋島松濤公園の池から上流にのびる川の先端は、途中で西側台地に向かって進路を変えています。この不自然な進路の先に直角に交わる直線状の水路が三田用水です。
複雑な地形の中で川の水を利用するために、安定的な水の供給を求めて、台地上を流れる上水・用水から水を引いたのです。こうした分水は水田の用水としてだけでなく、水車や大名庭園の池にも使われました」
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近代以降
宅地化と小河川の荒廃
「ところが明治になると東側台地から宅地化が始まります。末端の用水路は不要になって、埋め立て地が払い下げられるようになりました。一般的に『1964年(昭和39)の東京オリンピック開催を境に、河川の暗渠化が進んだ』と言われますが、実際には川の消滅の時期と理由はさまざまです。例えば、大正時代初期、千駄ヶ谷駅前の現・東京体育館の場所に屋敷を構えていた徳川宗家により千駄ヶ谷三丁目付近の支流沿いで、大規模宅地開発が行なわれ、河川は直線化され、昭和初期には一部が蓋をされています」
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下水道計画
「河川を利用すれば、谷間の高低差がそのまま生かせます。ですから、河川を下水道として利用していこう、という計画が出されたのは必然だったのかもしれません。 1916年(大正5)の東京都市計画郊外下水道ではすでに多くの川が下水道として利用することが予定されていました。図で赤くなっているところが、明らかに河川を利用したとわかっている下水道です。ただし、この計画はなかなか実現しませんでした。ですから、1964年(昭和39)の東京オリンピックの際の暗渠化は、何十年も経ってそれがようやく完全に実現したということになります。ただし、図に描かれているように、大正時代の下水道計画では、渋谷川本流は蓋をする計画ではありませんでした。現在のように下水道の千駄ヶ谷幹線として蓋をされる計画に変更されたのは、戦後、1950年(昭和25)の東京特別都市計画下水道のときです」
「現在は清流復活事業で、並木橋付近から落合水再生センターの処理水が入れられていますから、そこより下流には水があるんですが、稲荷橋から並木橋の間にはほとんど水が流れていません。
渋谷川の水は、いったいどこにいったのか。稲荷橋の所から暗渠になった川を遡ると、渋谷川と宇田川の合流地点からもっと上流、現在の宮下公園の辺りから先では、下水道幹線としての渋谷川(千駄ヶ谷幹線)に、汚水も湧水も一緒になって流れています。稲荷橋で開渠になった渋谷川に、その水が流れてこないのは、コンクリートの堰で渋谷川下流部と分流されて、明治通りの下を通り芝浦水再生センターに運ばれるからです。ただし、大雨のときは下水道幹線に収容しきれない汚水が、コンクリートの堰を越えて渋谷川~古川に流れ出します」
田原さんのガイダンスに続き、中村さんに、下水道化された渋谷川の複雑な時代背景についてお話いただきました。渋谷川の現状は、田原さんからご説明いただいたように、かなり複雑です。中村さんは、「もしも、この渋谷川を再生することができるならば、ほかの都市河川でも再生ができるのではないか」という野望を持っているといいます。
渋谷川はさまざまな切り口を持つ川ですが、中村さんには高度経済成長期に山の手の河川が一気に暗渠化したきっかけになった〈36答申〉からお話を始めていただきました。
なぜ、渋谷川が暗渠になったのか?-渋谷川から考える、これからの都市河川再生
「1909年(明治42)の地図と比較すると、78%の川がなくなっています。専門用語では、なくなった川のことを廃止河川といいますが、廃止河川には暗渠化と埋め立ての二通りあります。「暗渠化」は河川に蓋をすること、「埋め立て」は河川の中に管を埋めてその中に水を流す方法です」
(中略)
渋谷川を再生するには-渋谷川をめぐる水循環
「では、渋谷川を再生するにはどうしたらいいのか。私は、河川再生に向けたいくつかのヒントがあると思っています。
まず一つ目が、下水道方式の問題です。渋谷川の上流部は暗渠化され合流式下水道となっています。下水道形式には二通りあって、合流式下水道ともう一つは分流式下水道です。合流式下水道の長所は、工期が短いこととコストが安く済むこと、そして下水道敷設のスペースが不要、ということです。ですから、分流式下水道はそれと比較してなかなか都市部では採用されにくかったわけです。また、合流式下水道だと、雨水や湧水も汚水と一緒に流れてしまうという、大きな問題もあります」
「都市河川再生をどう考えるか、という私の考えを申し上げて、みなさんが渋谷川を歩いたあとに感想をうかがいたいと思います。
①川は、人(社会)と自然の結節点です。現在の河川の姿は『長い歴史を通して河川に加えられてきた人間の行為が積分されたもの』(高橋裕さん)ですから、人間活動が濃密に繰り広げられてきた都市の中の川は、より一層、その積分値が大きいはずです。その結果として、都市河川をめぐる水循環は、目の前の川の姿だけでは収まらなくなっています。
②水は高い所から低い所に流れます。元来、その川が持っていた地形を読み解くことが川の理解には不可欠で、それの地形的特徴を生かすことが持続可能な河川再生の第一歩、と考えます。
この二つの視点を頭に置きながら、実際にフィールドに出て川の姿を見て頂けると、より一層、渋谷川への理解が深まると思います」