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Channel: トヨタマヒメ富士日記
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如月朔日の夕暮れ

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今日からいよいよ二月


如月(きさらぎ)とは・・・

寒さのため、衣を重ねることから

「衣更着」と呼ぶといふ。


昨日と今日は春のように寒さが和らいだので

今年は逆に若干薄着で過ごせた。




今日は樹海のガイドの仕事があって

二つのご家族を一時間づつご案内することになった。


久し振りのガイドのお仕事は楽しくやらせていただいた。


しかし西湖では写真を一枚も撮らなかった!


なんやかやと個人的仕事をたくさん持って行ったために

あっという間に過ぎてしまったので。




家に戻り

いつものようにわんこの散歩の時

如月の初めの日没が

味わいのあるものとなった。


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これはinstglamにアップした画像なので
少し色がきつくなってしまった。


本当はもっと柔らかい。


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こちらは生の色に近い。

今日は暖かかったので
薄い靄に空が包まれているようだ。
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この一枚は
色々な存在が写っているように感じました。


{85A6DE1E-5EC4-469A-B4F2-343ADA356EB7:01}




{7B77562D-1292-42E4-A5A6-16706F42432C:01}

今日の最後に撮った写真も
なんだか不思議。




今日はまた
色々なことがあり・・・


続きはまたお届けできると思います。

異次元への入り口 (姉の不思議な話 番外編)

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なんだかとんでもない流れになってきました。


先日

親子喧嘩をした姉が

東京から富士山に来て

20年ぶりくらいに二人で色々な話をして

その話しが面白かったので


①清子おばさんと清正

http://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-11760231634.html



②龍になってトンネルを?

http://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-11760648123.html


③共通の前世は?

http://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-11761934766.html

と記事にしました。



昨年までであれば

それで終わりそうな、姉妹のよもやま話なのですが

昨日は午年の春節

スーパームーンと重なって

やはりただではすまなかったみたい。


昨日

わたしのブログを読んで下さっていた「K子さん」というかたから

メッセージがありました。


K子さんは

わたしの記事を見て

「あ、わたしに似てる・・・」と思ったそうです。

このわたしではなく、姉のほうです。


そして「たまたま」代官山にお勤めだったので

帰りにその姉が龍になってくぐっていたという「トンネル」に

行って見たいな、と思い立って

わたしにメッセージをくださったとのことでした。


わたしはそれを見て

そういえば、姉の話を聞いたわたしですら

どこなのか確定できずに「そんなところにトンネルなんてあったっけ?」

という具合でしたので

「もう一度聞いてみますね」とお返事をしました。


果たして姉は、やはりかなりな方向音痴なので

上手に説明してもらっているのか

そうではないのかわからないまま

姉の話していることをK子さんにお伝えしました。


ちゃんとたどり着けたらいいなあ、と思いながら・・・


昨日の夕方六時を過ぎた頃

K子さんから連絡が入り


わたしの姉からわたしへの伝言を聞くまでも無く

「そこに呼ばれてちゃんと行けました」

「すごいです」

というのです。


わたしはK子さんに画像を送って欲しいと御願いして

そのあと互いのメールアドレスのやり取りをしようとしましたが

何度も何度もトライしてもお互いに送れなくなってしまったのです。


おそらくそこは

次元の扉

異次元の入り口のようです。

K子さんの言葉では

そこは「ホワイト・ホールなんです」


姉が龍となって通るというのはそういうことだったのかもしれません。


11時過ぎになって

やっとK子さんから三枚の画像が送られてきました。


事情があって

その中の一枚しかお見せできません。

(これはただの三次元的なそこの天井の写真です)




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なにも特別なものは写っておりません。


おそらくここは
感じる人しか感じないところなのかもしれません。




K子さんはわたしたち姉妹のうち
とくに姉と深い関係がありそうだということが
今日長いお話をしてわかりました。
もちろんわたしとも
同じ魂のグループであると言えそうです。




ここのトンネルの場所はわたしは他の方にお伝えすることはできません。
おそらく
「呼ばれる方」がこれからも出てくると思われます。


その時はどうぞ
こっそりとわたしにメッセージをくださいね。
もしかしたら
お仲間かもしれませんね。




ココロの旅 「玉龍雪山のトンパ文字」

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一番行きたいところ(シーサンパンナ)には行けなかったけれど

それはここに行くべき理由があったからだというのは

実は今日までわからなかった。


1989年

今から25年も前の話を

記憶の糸と手繰り寄せつつ書いていることは

何の意味があるのだろうご思いながら

ときどきやめたくなるのだが

思い出しつつ調べていくと

今、ここに自分がいることの意味が

あぶり出しのように浮かび上がってきた。



中国での最終目的地は

雲南省 麗江(リーシャン)

玉龍雪山という霊山の麓


ナシ族という少数民族が住んでおり

漢字以前の「トンパ文字」という

独自の文字を持っているらしい。


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(美しい玉龍雪山の画像)


聖なる山

「玉龍雪山」の麓にスキー場ができる計画をわたしはその後新聞で知り

その後大きな地震がこの村を襲ったことを知ったときは

神の怒りではないかと思ったが

それは

この旅から帰ってきて

かなり後、1996年の話だ。



さて

ここの「ナシ族」

北斗七星信仰も根強く、背中に七つの星をつけていたこの人たちの写真を

わたしはたくさん写真を撮らせていただいたけど

他の少数民族の人びとのように写真を撮られることに慣れていなかったので

ときどき断られたり怒られたりした。

それが大理などの他の村の少数民族との大きな違いだった。

中国での旅は

わたしたちがもっとも少ない少数民族であると見えて

写真を撮っているわたしたちの回りに人垣が出来た。

奥に行けば行くほどそうなったのだけど

ここの麗江だけは、外からの人間を遮断しているように思えた。

だからこそ、独自の文化と文字を現代まで有していたのだろうか。






(Wikiより)

ナシ族は元来母系社会の一妻多夫制 で、家庭などでの女性 の地位が、男性と平等とまでは行かないが、比較的高い。それを表す一例として「祖母部屋」がある。これは一家の女家長である最年長の女性が住む部屋で、ここに先祖の祭壇などがあり、家内の未成年はみなここに住むことになっていた。現在でも古い家にはこの部屋があるという。ナシ族は基本的に自然崇拝 であるが、チベット仏教 の影響も多く受けている。ナシ族の町でチベット仏教の建物は重要な位置を占める。麗江には小川がたくさんあり、中州に生命や死んだ人などを祭る色とりどりの祭壇がある。


ナシ族の持つ「トンパ文字」では

女は大きいを現し

男は小さいを現すのは、この母系社会の賜物だろうといわれている。


このキッチュなわたしたちを狂喜乱舞させた「トンパ文字」も

その後日本でコマーシャリズムに乗り

たくさんの人びとの目に触れるようになった。



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トンパ文字を検索したら

たくさんのブログに行き当たり

その中で世界が今抱える「世界遺産」の抱える問題に行き当たる

ある記事に出会った。


その後1997年に「麗江」は世界文化遺産となっていたことを

わたしは今日初めて知った。

富士山に来てからは

このヒマラヤに程近い小さな村のことを

わたしはすっかり忘れていたのだ。



(少々長い引用になるけれど、こちらの記事は現在の世界遺産が抱える地域に巻き起こる葛藤が表現されていて興味深い。)

<電網写真館「神虎の棲む山」さんよりの転載>1997年の話




翌日古城をぶらついていると、ある一角では、建築ラッシュといってもいいほどコンクリート製の箱型ビルが壊されて、ナシ族ふうの木造建築に立て替えられていた。20人もの男が、木を組んだ建物の側面 をロープで引っ張って、垂直に立てている。
 「イー・アル・サン!・・・イー・アル・サン!」
 勇ましい掛け声が響いていた。
 木製の脚立の上では、男が壁に白いペンキを塗って化粧直しをし、天秤棒の両端に下げたブリキのバケツで水を運んできた老婆は、砂を混ぜたコンクリートのカルデラ湖のように窪んだ穴に、水を注いでいた。一見、地震のあとの復旧工事のようだった。
 おなかがすいたので古城の外に出て適当な食堂に入り、油炸排骨(揚げたスペアリブ)と、トマト・玉 子のスープと御飯を頼んだ。店の奥さんが、ガラスコップに緑茶を持ってきた。
 料理がすべて運ばれてきたので食事を始めると、私が外国人だと知ってか、厨房から30前後の主人が出てきて、私のテーブルの反対側に座って、お茶を飲み始めた。そして私に日本人か?と聞いた。私はそうだと返事をして、熱々の排骨を割り箸でつまんで口に入れ、肉を食べたあとの骨を床に吐き捨ててから聞いた。
 「古城は大変な建築ラッシュですね? 地震のせいですか?」
 「あァ、あれかい? 地震のためじゃないんだよ。地震の震源地は拉市あたりだったし、麗江の町自体の被害はそれほどなかった。そして地震から11か月も過ぎているんだから、復旧工事も終わってしまったしね。あれは世界遺産の登録を目指してのことなんだ。視察団はもともと去年来るはずだった。その時地震になってしまい、1年延びたというわけさ」
 「世界遺産て、世界文化遺産のことですか?」
 「そう。今年の末に登録されるかどうか決まるらしい」
 「世界遺産になったら、ますます観光客が増えて商売繁盛ですね」
 私がそういうと、主人は難しい顔をして、
 「テレビでは毎日のように、世界遺産になることを地元の人たちはみんな期待しているなんてやっているけど、お金のない俺たちは歓迎なんかしていないよ。文化遺産になったら、麗江は有名になるかもしれないが、お金儲けしようと、大資本のホテルやレストランができて、俺たちのような個人でやっているこんな店は、衛生上よくないとか何とか、いいがかりをつけられて、閉めさせられるかもしれない。お金が入るのは金持ちだけで、ただ物価と税金が上がるばかりだし、苦しむのは、俺たちのような貧乏人さ」
 どうも日ごろの胸の内にたまった鬱憤を、この主人は外国人に喋ることで解消しようとしたようだ。
 「
トンパ文字 だってそうなんだ。そこらの土産物屋で売られているのは偽物、コピーだよ。土産物屋の大部分は、外からきた漢族たちで、ナシ語もわからず、ただトンパ文字の写 っている写真集か何かから文字だけ写して売りものにしている。自分かってに描いているから、同じ『空』を表す文字だって、描く人によって違った文字になっている。なんか俺たちナシ族はバカをみてるっていう気がするよ」
 ナシ族には、結婚式、葬式、病気を治す、邪気を払う、吉凶を占うなどの時に儀式を行ってもらう習慣があった。その儀式を司るシャーマンがトンパ(東巴)と呼ばれ、そのときに使う経典の象形表意文字が
トンパ文字 である。
 日本でも、このナシ族のトンパ文字が、カシミヤセーターの新聞広告に大きく使われたことがあった。山を表わすとんがり頭の栗の形をしたトンパ文字を中央に配し、右上にカシミヤヤギの写 真。何をかくそう、その山羊の写真を撮ったのは私である。
 今ではトンパ教という宗教はほとんど廃れ、宗教と文字は切り離されて、単純に形がおもしろいとか、アートとして見る見方も出てきた。その見方が、この時代に合ったからこそ、外国人にうけて麗江の土産物にもなっているのだった。だから、何が本物で何が偽物かと判断するのは難しくなっている。
 そのトンパ文字を土産物としているのが、ナシ族よりも、他の民族の商売人が多いということを主人はいいたいらしい。ナシ族には他民族に商売のうまみを持っていかれるという危機感があるのかもしれない。
 「偽物のトンパ文字を、だれかが取り締まったりということはないんですか?」
 と聞くと、
 「ツーリズムの発展のためには、何でもありなんだよ。けっきょく、金にさえなればナシ族の文化なんてどうでもいいのさ。売れるものならなんでも売る。魂さえ売ってしまう」
 捨て鉢に言い放つと、私たちの会話を聞いていた奥さんの顔を窺った。あまりそいういうことを大声でいわないでと奥さんは目で訴えているようだ。
 そこへ愛くるしい女の子が出てきた。彼は3つになるというその娘を膝に抱いた。彼はナシ族だが奥さんはペー族だという。すると子供は自分の民族としてペー、ナシどちらでも選べるらしい。
 「ナシ族、ペー族、どっちがいいんですか?」と私は聞いた。
 「どっちも駄目さ。やっぱり漢族が一番いい」と主人は答えた。
 「でも、少数民族は優遇されているでしょう?」
 「チベット族や、イスラム教徒のホイ族は、外国のうしろだてがあって、政府も怖がっているから優遇しているけど、この麗江に住むだけの27万のナシ族が反乱を起こせるはずはないし、だから優遇して機嫌をとる必要もないのさ」
 彼は喋っているうちに、だんだん興奮してきたらしかった。私はどう返事を返せばいいのか思案にくれた。私の困った顔を見て、気を取り直すように、
 「そういえば・・・」
 といって、重なりあっている屋根の隙間を指差した。
 「なんですか?」
 彼が指さすさす方を見ると、隙間から玉龍雪山が見えた。
 「あれだよ。不思議だよなァ」
 彼はホウロウびきカップのお茶を一口すすって言葉を続けた。
 「雪が少ないんだ。夏でさえ、今までこんなに雪が少ないことはなかったよ」
 私は、そうかと気がついた。今回麗江に着いたとき、バスから見た雪山に何か違和感を感じたのだったが、それが雪のない山だったことにようやく気がついた。
 雪のない雪山・・・。
 確かに見慣れた山は、いつも天辺に雪が被っていたのである。何度となく写真を撮っていたはずなのに、どうしてあのとき気がつかなかったのだろうか。
 「地震と関係あるのかな」と主人はいった。
 「えっ? 地震で雪がなくなったんですか?」と私は聞いた。
 「そうさ。地震のあとに雪がなくなったんだよ。このあたりの人間はみんなそう信じている。そういえば、雪山の麓にスキー場を作ろうとしているらしいんだが、雪がなくなっちゃァ、スキーはできないよな。スキー場なんかいらないって、天の神様が我々人間を諭しているのかもしれない。これは天罰だよ、きっと」
 そういうと、彼は皮肉な笑みを浮かべた。
 「この人ったら政府のやることなすことに反対するんだから・・・」
 奥さんは困ったような顔をして、あたりを見回しながら小声でそういった。


http://www.asia-photo.net/yunnan/pref/lijiang/lijian1.html




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ここではまるで100年前の中国を歩いているような

映画のセットのような懐かしい風景に幻惑された。


しかしここにはある種の「中央から虐げられて人びとの暗さ」のようなものが漂っていた。

それでもこの近くて遠い国の

このあまりの非日常感覚をわたしたちは多いに楽しみ

屋台で売られているものをほおばりながら町を歩いて

「北斗七星」を現す七つの丸い刺繍の民族衣装をお土産に買ったりした。


そこで

ある人物

有名な「ドクター・ホー」に出会うことになる。


春節過ぎて

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日曜日

北富士演習場に入れると思ったら

先週の日米合同演習のあと

トラロープが張り巡らされてシャットアウト!


今日も入れずに

しかたなく

恩賜林の人工的な森を探索することにした。



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春節過ぎて
今日はとても温かな陽射しで
シジュウカラは囀りを始め
雪はどんどん溶けていく。


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すっかり葉が落ちた落葉広葉樹の林を歩くと
この季節ならではの楽しみが見つかる。

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たとえばこんなもの。


鳥の巣が見つかることもあれば

これはスズメ蜂の大きな巣。
生茂る葉が
彼らに安全を与えていた。

今は
兵どもの夢の後先。

母蜂は眠りにつく。

季節がもう一度巡り来るまで。


眉をしかめるなかれ。
彼らはこの惑星の大先輩。
新参ものはわたしたちなのだから。


この生態系の中で
そのバランスと調和を壊すのは
いつもわれわれ。
忘れる無かれ。






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自然は人を謙虚にする。

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少しづつ
少しづつ
目に見える形で日が長くなってきた。


あともう少しで


本当の春になるよ。


生きとし生けるものの輝く季節。


待ちどうしや。

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ココロの旅 「ドクター・ホーのもとへ」

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今は考えられないのだけど

あのころは

年に四回は確実に風邪をひいていた。



ことさら飛行機に乗ると

エアコンだの乾燥だので

海外で寝込んでしまうのだった。



ひとりで旅行をしていたころは

人に迷惑をかけるわけでもなく

ホテルで二日や三日寝込んでも

そのぐらいのロスですむけれど

Sとふたりで旅行するようになったら

付き合い始めて最初の3カ月くらいは優しかったSも

「なんでこんな時に風邪をひくんだ!」と

イライラするようになってくる。

まあ、男なんてそんなもので

若くして離婚経験のあるわたしは特別に憤ったりはしない。



「わたし寝てるから好きにしていいよ。」



男はそのシチュレーションに慣れていないのだろう。

結局暗いホテルの部屋でTVなどを見てすごし

(一人で町に繰り出す気がしないのだろうか?

考えてみたら、Sは一人で海外旅行をしたことがなかったのだ)

挙句の果てに寝ているわたしにイライラを募らせるのだ。



北京であのなんという名前だったっけ

ラストエンペラーで知った「紫禁城」だ!

あそこの「拷問の間」を見学したとたんに気持が悪くなった。



次の日の「万里の長城」ツアーに参加したとき

最悪の状態になってしまった。



そんなことを書くとわたしがまるで敏感体質のようだけど

まったくそういうわけではない。

「年四回風邪をひく」は展示会のようなもので

(洋服の展示会は年四回行なわれる。)

わたしの主治医は

「そろそろ来る頃だと思っていたよ」

そういって

いつもの注射をしてくれるのだった。


昆明(クンミン)では二日寝かしてもらって

なんとか普通のものが口にできるようになった。

北京では「死んだものも生き返る」という

怪しい「なんとか丸」というものを買って服用していたのだから。


そこで

大理石とはそこの土地の名をとったという

大理(ターリー)についたころ

その町のうどん屋にまず食事をしに行った。

(雲南ではラーメン屋はない

みなうどん屋なのだ。日本のうどんにそっくりなのだけど

ホイ族という漢字で書けば「回族」つまり回教徒の人々が

うどん屋を営んでいることが多いようだった。そんな店には、ヘジラ歴、つまりイスラム歴のカレンダーがかかっていてすぐわかった。ホイ族のうどん屋はまあまあ美味しかった。)


そこでであったイタリア人旅行者の名前がどうしても思い出せない。

彼と友人の二人組みは

ここでは常識の「マイ箸」で、うどんを食べていた。

エコの理由ではない。

ここでは「B型肝炎」に感染する恐れがあるからだ。

わたしたちも北京で買った「マイ箸」をさっと取り出した。


わたしたちはただち意気投合した。

目的地が「麗江」共通だったからだ。


コミュニケーションはわたしとSの片言の英語で行なったが

このような旅ではさほど不便ではなかった。


次の日に、何と言う名前だったか

耳の形をした湖巡りの遊覧船に乗った。

(詮索したら出てきた。

それはさんずいに耳に海とかいて「ジカイ」という淡水湖だった)


画像もお借りした。懐かしい。


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大理で何日か過ごしたのちに、四人で麗江に移動した。

交通機関はバスであったと思う。


そうして

そのイタリア人たちとともに

「異邦人としてその土地を流れる」旅を楽しんだのだった。

イタリア人たちは「マルコ・ポーロ」を誇りに思っていて

乾麺のルーツがこの中国にあり

それを持ち帰りパスタが生まれたことを自慢さえした。


麗江についてからも行動をともにして楽しんでいたが

わたしが風邪をひいていると知り


「ドクター・ホー」のところに行こうという。

なんでも漢方のすごい先生で

どんなものでも治してしまうという。

彼の持っていたイタリア語のガイドブックには

顔写真まで載っていた。


それでそのドクターのところにおとずれた。


ほど広い中庭にたくさんの植物の乾燥したものが所狭しと並べてあり

いわゆる漢方の嫌いではない香りが漂っていた。


そこでわたしは風邪に効く薬を調合してもらい

東京に戻ってからも、それを煎じて飲んでいた。

その香りはわたしにこのドクターと

あの麗江の町並みをいつまでも思い起こさせた。


一つ前の記事で紹介させていただいた

「電網写真館」を読み進むと

この「ドクター・ホー」の話しが出てきたので

あまりにも懐かしく、様々な思いがわきあがってきた。

家のどこかに

このときの写真があるはずだ。

見つかった暁にはぜひお見せしたいとおもう。


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(電網写真館 青柳健二さんのブログより転載させていただきました)



玉龍雪山本草診療所の有名人

 麗江新市街の毛沢東像の下で商売している貸自転車屋で、私は変速ギヤもあるマウンテンバイクを借りた。
 町並を北へ抜けると、玉龍雪山に向かってペダルをこぐ。幸いその日は晴れていて、それほど風も強くなかったので、ぽかぽかと暖かく、山の麓まで続いている一直線の道は舗装されていたし、自転車に乗っているのは気持ちがいいくらいだった。
 昔はそもそも貸自転車自体が少なく、ようやく見つけてもそれは、悲しくなるほど重い中華人民共和国製の変速ギアなしの自転車だった。それで強い向かい風の中、砂利道の穏やかな上り坂を延々とこぎつづけなければならなかった。時代の変化は、こんなところにも感じるのである。
 10キロほど直進し、道を左に折れる。木造の骨組みに日干しレンガの壁で作ったナシ族の典型的な民家が並ぶ白沙の村に着いた。
 村のメインストリートに立つと、ちょうど北の方に雪のない玉龍雪山が見えた。雪がないと気がついてしまうと不思議なもので、その雪がないことが妙に居心地の悪さを感じて仕方がない。地元の人たちが、地震と雪のないことを結び付けるのはわかるように思った。まったく関係がないとはいえないのだ。両者とも、めったにないという意味で。
 自転車でさらに北へ走ると、めざす診療所が左側にあった。「麗江玉 龍雪山本草診療所」という見覚えのある細長い看板もそのまま古ぼけた建物にかけられていた。
 自転車を止めると、すぐに懐かしいドクターが、重たさで汗ばんでしまう厚手の綿入れコートを羽織って中から現れると、私の手を両手で力強く握った。
 「いらっしゃい。何年ぶりですか?」
 「6年ぶりくらいですね」
 診療所の前庭に出されているイスを勧めてくれたので、私は日だまりの中のそれに腰掛け、目をつぶって暖かい太陽に顔を当てた。
 彼は屈託ない笑顔で診察室の奥から外国の新聞や雑誌を抱えてくると、テーブルの上に置いた。雑誌の1冊をパラパラとめくって彼の顔写 真付きの記事を見せてくれた。昔何度も見せてもらった(見せられた)
ものだったが、私は黙ってそれを見たあと、他の新しい雑誌にも目を通 した。
 記名帳もだいぶ増えた。感謝の手紙やはがきなどを、日本語、英語、フランス語など言語別 に整理している。
 お礼の手紙には、いろんな病名が書いてあった。高血圧、不眠症、糖尿病、肥満、喘息、花粉症、アトピー性皮膚炎、胃病、便秘などなど。薬が効いたので、また同じものを送ってくれないでしょうかと書かれた依頼の手紙もあった。
 玉龍雪山の周辺は、「植物宝庫」と異名をとるほど植物の種類が多い。とくに薬草は昔から有名で、この薬草を使って病気を治す民間療法の伝統が残っている。このドクター・ホー、和士秀さんは、白沙村に診療所を開いているナシ族の薬草医なのである。初めて彼の名前をある旅行者に聞いたとき、正直にいうと、ちょっと怪しいおじさんかなとうさん臭く思ったのだった。
 彼はこの年74歳になっていた。しかし、皺は増えたとはいえ、あの童顔は同じだった。灰色の顎鬚が、いかにも隠れ里の仙人のような感じなのだが、喋ると穏やかな声で、目が優しく輝く。それが人懐っこい印象を与えるのだった。有名人だろうが、普通 の旅行者だろうが、区別しないザックバランな性格、これが彼を慕う人を増やしている一番の理由ではないだろうか。
 ヤカンに入ったハーブ茶をすすめてくれる。薄緑色したお茶は独特の香りと味をしていて、おいしいとはいえず、やはりどちらかというと、薬の部類に入る。

 ´80年代中ごろ、たいていの旅行者は、私と同様、麗江の町で自転車を借りて、12キロ先の玉 峰寺というチベット仏教のお寺を見学に行っていた。タクシーなどもなく、旅行社も積極的にツアーを組むことをしない時代だったからだ。
 この寺の境内には大きな山茶の大木があった。椿の大木である。高さは3メートル、幹の太さは40センチ、500年の歴史があるそうだ。世界最大の椿の木といわれている。(ほんとかなぁ?) 春に訪ねたことがあったが、その時は満開の椿の花を見に、ナシ族やイ族の家族づれがやってきて賑わっていた。
 この寺のラマ僧といっしょに食事をしたこともあった。「食べろ、食べろ」といって手に山盛りの豚の脂身をもらって、泣きそうになったことを覚えている。

 ドクター・ホーの診療所は、玉峰寺の途中、ここ白沙にあった。寺を訪ねたとき、必ず診療所の前を通 り、そのたびにハローと声をかけられて、しばらく立ち話をしていたのだが、そのうち彼に興味が出て、5日間ほどそこに通 って、彼の仕事ぶりを見ていたことがあった。
 1884年にオーストリア・ウィーンで生まれたアメリカ人植物学者でもあり探検家でもあったジョセフ・F・ロックは、1922年から1949年まで、たびたび麗江に滞在した。そのとき、ドクター・ホーも、彼から英語と薬草について学んだ。
 彼も文化大革命時代は苦しい生活を体験した。当時の話を聞くと途端に口数が少なくなったが、「村は地獄でした・・・」と辛そうに語った彼の顔が思い浮かぶ。
 中国の政策が変わって´85にライセンスがおり、この「麗江玉龍雪山本草診療所」を正式に開業することができた。ドクター・ホーもまた中国の対外開放政策によって人生が大きく変わった人物のひとりだった。
 彼は旅行者の間でも有名になり、中国国内や遠くは外国からも彼の調合する薬草を求めて訪ねてくるようになった。英語がわかることも、外国人に有名になった理由のひとつだろう。
 診療所を開いて1年たつかたたないうちに、彼の名はアメリカの「タイム」誌で紹介されることになった。その後も各国の雑誌や新聞でも取材を受けている。
 1991年3月には、映画「ラストエンペラー」に出演した香港の俳優も彼を訪ねてきた。胃の病気に悩んでいたが、ドクターのマッサージとハーブによって、それはすぐ解消した。また、4月には、駐中国イギリス大使、カナダ大使の一行がここに立ち寄った。イギリス大使婦人には座骨神経痛があったが、ドクターのハーブを使ったところ、それが軽くなったといい、2か月後、礼状が送られてきた。それにはエリザベス女王の写 真というオマケまで添えられていたという。
 彼は村人の診察や治療のかたわら、山からいろんな薬草を採取して効能や配合を調べ、実際の治療に役立てている。ただ、薬草医とはいっても、薬草だけで病気を治すわけではない。患者の病気を診て、薬草と西洋医学の薬を使い分けたり、併用したりする。
 「肺癌のような病気でも、西洋医学と漢方のコンバインが大切だということですよ。大きな病院では医者は西洋医学を学んで、ハーブのことをないがしろにする傾向がありますが、西洋医学だけが万能ではないということを医者は知らなければなりません」 あるとき、こんなことを熱っぽく語ってくれるのだった。また、こんなふうにもいっていた。
 「西洋医学では外科、内科、婦人科などといろんな科に分けてしまいますが、私は人間の体をひとつの系として考えています。全体をとらえなければ部分もわからないということです。いや部分だけに気を取られすぎると、全体が見えなくなるといってもいいかもしれません」
 このあたりでとれる貴重なハーブをいくつか見せてもらったことがあった。心臓病、血液の循環に効くという「金星七」「雪山チー」「丹参」「紅隔山消」などなど。「雪山チー」は貴重で、ドクターは息子といっしょに玉 龍雪山に上ってこの植物をとってきたが、生えていた範囲は1アールほどの狭い場所だった。そんな話を聞いたせいか、その干からびた茶色い木の根に見えるものが、とても病気に効くような気がしてきたものだった。
 ある日、私が彼の保管してあるこれらの珍しいハーブの写真を撮らせてもらっているとき、ドクターは外へ出ましょうと私を促した。どうしたんだろう?と訝しく思いながらドクターに連れられるまま、診療所から100メートルほど離れた玉 龍雪山の見える畑にいった。彼は畑の畦道を歩いていき、座り込んで私を手招きしたので近づいていくと、そこに生えていたレンゲのような草を取り、諭すようにいったのだった。
 「あなたはことさら珍しい薬草ばかり写真を撮っていますが、こういう雑草でさえ、ハーブとして何かの役には立つんですよ。役に立たないものなどないんです」




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さて

ようやっと時間が1990年にもどってこれそうだ。


ここまで遡って書いてきて思ったのは

子供の頃から「自然」というものから切り離されてきたわたしが

どのようにそれを人としてその結びつきを復活させることができるのか、

その永遠のテーマの旅だったのではないか

ということだった。


「人と自然は大きく結びついている。」

それをあらゆる角度から

何者かがわたしに教えてくれようとしているように思えてきた。



1990年にスタートに始めようと思ったこの話も

父の死に遡ったために今日までかかってしまったのは

それはそれで意味があることだったようだ。



(このあとはこの「ココロの旅」は

1990年

如月からの話しの続きになります。

立春にどうにか間に合いそうです。)


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天河の節分祭「鬼の神事」

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今日は節分。


みなさまのお宅では豆まきをしますか?

恵方巻きは食べますか?


豆まきは、子供の頃は我が家は毎年やりましたね。


大人になってからはやらなくなったけど

今でもうちの姉家族は小さい孫たちがいるので

やっているようです。


スーパーでもコンビニでも

「恵方巻き」はすっかり定番になっていますが

「丸かぶり寿司」という名前で

20年くらい前に奈良の奥吉野の天河大弁財天社に通っていた頃

「節分祭」の帰りに奈良の駅の何箇所かで売っているので

珍しくて買って食べたことがあります。

そのころは関西だけの風習のようで、

もともとは「関西ののり問屋の戦略」だったらしいのですが

縁起物を関東よりも好む関西の流行らしいな、という感じでした。


その後、五年くらいしたら東京のスーパーでも顔を出すようになって

あれよあれよという間に広まってしまいました。


それはそうと

今書いている「ココロの旅」にはこれから出てくるシーンなのですが

1991年から1995年の四年間、わたしは日本のあちこちを動かされますが

とくに、奈良県奥吉野にある、日本三大弁天のひとつといわれる

「天河大弁財天社」に足げく通い、

中でもそこでの節分に行なわれる「鬼の神事」に心を奪われて毎年通うことになりました。


その話を、ちょうど2年前の2月2日に書いているのを見つけました

http://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-11153587936.html  


このころはブログを初めてまだ2ヶ月。

初々しいというか、たどたどしいというか

「対象の想定」が出来ていない感じでお恥ずかしいのですが


「節分」という季節の節目の大切な日

この「鬼の神事」のことをまたお知らせしたくなり

ご紹介してしまうことにしました。


(天河のことですが、村の名前は「天川村」です。

神社名が「天河大弁財天社」です。

ブログを始めたばかりのころはこのように正確ではない表示をよくしてしまっています。)




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今日
2014年2月3日の富士山


明日は立春ですね。




まだ目に見えるかたちではないけれど
色々なことが動き始めてきているようですね。

異次元への入り口 その後

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アメンバー限定公開記事です。


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立春大吉

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今日は立春。


立春は、冬至と春分の間の2月4日頃に当たります。 ... 立春は冬と春の分かれる節目の日である「節分」の翌日で「寒さがあけて春に入る日」いわば春の初日です。 ... 立春の早朝、禅寺では厄除けのために門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣があります。

(日本文化いろは辞典より)



今日2月4日は

亡き父の誕生日でもある。

豆まきをした次の日は

父の誕生日を祝う。

これは子供の頃の我が家の行事だった。


思えば「めでたい日」に生まれたのだなあ。



今年は暖かいので

花の便りもちらほら届く。

甲府盆地では、早咲きの桜が咲き始めたようだ。

毎年これを見ないと始まらない牧丘の福寿草も

例年より10日早く咲き始めたとのこと。


下の写真は富士宮の水巡りのときに撮ったもの。


ロウバイは蝋で作った梅のようなその花から名がついた。

形は梅に似ていないけど

香りがそっくりだった。


全ては陽に向う。


愛でたし。



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ココロの旅 「パラレルワールド」

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やっと、話が「1990年」に戻ってきたけれど

なんだかどこから書いてよいのか

収集がつかなくなっている。


ああ、

2014年に入ってから

ますます押し寄せている「ある観念」と

この年に出会ったことから始めよう。




「パラレルワールド」


すなわち「平行宇宙」の話は、「バシャール」の本で初めて知ることになった。

それは今までの世界観を覆す

コペルニクス的な発想でわたしは心を掴まれた。




つまり、この世界はひとつではなくて

複数に存在する世界が同時にあるという観念だ。


それは「チューニング」する、とか

「フォーカス」する、という言葉をバシャールは使っていたと思う。

前者はラジオなど

後者はカメラなどで例えると良くわかる。

「パラレルワールドのひとつにあなたはフォーカスしている」

というわけで

夢はパラレルワールドのどこかで見ているのだという。




「なんだ、一つじゃないんだ!」




すると、未来を選ぶこともできるし

過去さえ無限に存在することになる。




そのあとに影響を受けた本は

「アメリカを変えた本」というキャッチフレーズの

ラムダスというアメリカ人が1960年代に書いた

Be Here Now」だった。

ヒッピームーヴメントの郷愁漂うこの本は

タイトルがその全てを現していた。




「いま、ここ」

全てはここからだ。




1990年はそのような始まりとなって

ヨガを初め

新しい本にたくさん出会い

貪るように読んだその本のタイトルさえ

今はほとんど思い出せない。




エドガー・ケーシー

シルバー・バーチ

幸福へのパラダイム(湯川れい子著)

など、など、など、など・・・・




「神」とか「霊」とか「光」とか「愛」とかは

新興宗教の専売特許だと思っていて

まったく遠ざけていた言葉。


友人から頂いた「なまけものの悟りかた」すら

本棚に入れっぱなしで1ページも読んでいなかったのに

その時は夢中で読んで


「わあ、すごいや・・・」


この世界の全ては、「意識」であって

「意識」が固まるか広がるか

どちらも「いま」決められる、というシンプルさが心にフィットした。




当時わたしの通っていた会社は代官山のはずれ

青葉台と南平台の交差点のすぐそばの旧山手通り沿いにあり

駅でいうと「代官山」よりは「神泉」が近かった。

例の「ニューエイジショップ翔卯」は

槍ヶ崎の交差点近くにあったと思う。

目黒の自宅に帰るには

タクシーで帰るか

渋谷まで道玄坂を歩いて帰り、山手線に乗るか。




渋谷に出ればどこの本屋にも「精神世界コーナー」があって

よくそこで寄り道をして、本を漁った。




そのうち

お決まりのパターンが訪れた。

精神世界、いまはスピリチュアル系といったりするけど

それに「はまったもの」は先ずそこに行く。



わたしは何故、いま、ここにいるのだろうか。

ここに来る前は誰とどこにいたのだろう・・・



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「自分の前世」

それが知りたくなってきたのだった。






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異次元への入り口 「レイライン」

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あの日から?なのか

それとも、その日から?なのか・・・


体はここ富士山の北麓にあるのだが

ココロここにあらずという感じだ。


こんなことは初めてで

2002年に富士山に移住してからというものも

わたしのココロは常に富士と共にあったはずなのに。


あの

例の代官山のトンネルの話しからかもしれなくて。


「猿楽町」

その町名が何故か気になっていた。


「猿楽町、サルガクチョウ・・・」


そして昨日は偶然にもわたしが生まれたあたりからそのあたり一帯が

「豊多摩郡」という地名だったことを知り

わたしだけ秘かに驚いたのだった。

そしてここも、明治の頃は

「東京府 豊多摩郡 渋谷村 字 猿楽」

{9C974381-C11F-423B-ACF7-E6317C9949D4:01}


そして友人が気になって仕方がない、と言った「川」の名は

「渋谷川」

わたしを含め、他の友人ともども

何故こんなにもそのあたりが気になるのだろうか?


ココロここにあらずといったのは

今日もこのあたりのことに関して検索をしてしまったからだ。


東京から来て12年

ほとんど東京のことを考えないわたしが

このタイミングでこれってすごいことだ、と思いながらも

理由もなくはまり込んでいく。


「猿楽塚」という古墳がすぐ近くにあることを知った。

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「ヒルサイドテラス内」

!!!!!

{6FB8BDE2-11AE-4047-A432-03E040086A0D:01}


うそだろう?

そこはわたしの会社が以前あった場所。


会社勤めしていたころは

ほんとうに日本の神社だの古墳だのにまったく興味がなく

ここから世界(マヤ、アステカ、キューバ、雲南)などに飛び立っていたのだから呆れてしまう。


古墳に行き当たったとき


ここはやはり大きなレイラインが通っている場所なのでは?

何か確信めいたものが生まれてきた。


とてもとても重要なものに気がついてしまったような

複雑な思いがいま、している。




さて

先日友人が送ってくれた川の名は

「渋谷川」であることを友人がメッセージで教えてくれた。


次はこの渋谷川のことを書いてみたい。


ここの上流はやはりわたしの想像の通りだった。

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そこでわたしはまたしても

ある「仮説」

あるいは妄想にたどりついてしまった。


あの

ある武将である。









渋谷川の秘密

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「春の小川はさらさら行くよ・・・」
小学校唱歌にも歌われたこの歌は
昔々(と言っても明治時代の)渋谷川の支流
「河骨川」のようすを歌ったものだったそうです。

渋谷川で検索したら
「春の小川」の流れをめぐるフィールドワーク:里川文化塾」
というのひヒットして
2月5日10時から、となっていた。
わ!今日だ!!!

慌てもののわたしはこの偶然に小躍りしたけど
一昨年2012年の2月5日に行なわれたようです。

それにしてもこの日付の一致はすごい!

作詞の高野辰之氏は当時 東京府豊多摩郡代々幡村に住んでいて
1912年にこの歌がつくられたといいます。


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そして
渋谷川の上流は
わたしの想像通り新宿の湧き水でしたが
十二荘ともうひとつ
どうも朝から気になっていた「新宿御苑」もその水源となっていました。


そのほかにも
玉川上水や、利根川の上水も渋谷川に流れ込んでいるようです。
新宿には神田上水が流れていますが
これが利根川のものなのかも調べたくなりました。




2012年2月5日に行なわれたフォーラムには
いくつかの興味を引く記事が報告として出ています。
このフォーラムでは
「春の小川は何故消えたか」を書かれた田原光奉氏がレクチャーをされたようで
ぜひ聞いてみたかったと残念ですが
一昨年であればわたしは渋谷のことにまったく興味をもたなかったのでしょう。


なぜ、いま
色々なひとたちが渋谷に意識がいってしまうのだろう・・・
もしかしたらの妄想に過ぎないかもしれないけれど
「東京の水の流れ」
レイラインに関係のあるそこに大きな問題があるからなのではないか
先日からずっと何かに駆り立てられるように
その水の流れを追ってしまいます。


「「春の小川の流れをめぐるフィールドワーク:里川文化塾」報告より転載」
渋谷川の概要

 田原さんは生まれも育ちも渋谷で、職場の白根記念渋谷区郷土博物館・文学館まで徒歩通勤という筋金入りの地元人です。渋谷川への愛着が嵩じて、『「春の小川」はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史』(之潮 2011)を昨年5月に上梓されました。

「渋谷川ー古川は、全長約10kmで、天現寺橋より下流は古川と呼ばれ、渋谷川の上流部は穏田川とか余水川などと呼ばれていました。天現寺橋が境となったのは、ここがかつての東京市の内外の境界だったからです。
 今でこそ大都会の中を流れる渋谷川ですが、江戸期の地図をみると、渋谷川は江戸と郊外の境界、古川は江戸の市街地内を流れていて、違う性質の地域を流れていたことがわかります」

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渋谷川の水源

「別名、余水川と呼ばれたのは玉川上水の余り水を流していたからで、渋谷川に多摩川の鮎が泳いでいた時代もあります。谷が浅い源流部では、大名の別荘に取り込まれ、庭園づくりに利用されました。水源の一つは新宿御苑の中にある玉藻池。江戸時代に高遠藩内藤家の中屋敷だった場所が1879年(明治12)宮内省(現・宮内庁)の管理になり、のちに新宿御苑となりました。水源を庭園に持つというのは、山の手の河川の一つの特徴です。
 玉藻池は敷地が今も変わらず庭園として利用されたことから残されましたが、広島藩浅野家の下屋敷にあった鐙(あぶみ)の池は、表参道をつくる際に埋め立てられてしまいました。
 天龍寺の弁天池からの流れも、玉藻池に入っていました。ですから、渋谷川の水源は、玉川上水と玉藻池、天龍寺の弁天池が主なものとなります」

用排水路と水車利用

「古川になる天現寺橋から下流は舟運利用もあって、川幅が広く、流れも緩やかです。それに引き換え上流部は、谷戸の中に幾筋もの小さな流れがあって、田んぼに使う用水路・排水路として利用されました。地図は省略されることがあるので、川筋が1本の線で描かれてしまう場合がありますが、実際は細い谷戸の中にも複数の水路がつくられて、1本は排水路、他方は用水路として使われることが多かったんです。
 また、1909年(明治42)の1万分の1地形図を見ると、川沿いの分流の上や岸に建物が描かれています。これは水車小屋。当時、流域で生産された米や麦の精米・精麦に水車が活用されていました。現在、東急東横線ホーム下の東横のれん街になっている辺りにあった水車小屋でも、明治30~40年代までは水を堰上げて水車を回していたんですよ」

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上水から引かれた川

「水源の一つに玉川上水がある、と言いましたが、三田用水からも水が入っています。1909年(明治42)の1万分の1地形図を見ると、今の渋谷区立鍋島松濤公園の池から上流にのびる川の先端は、途中で西側台地に向かって進路を変えています。この不自然な進路の先に直角に交わる直線状の水路が三田用水です。
 複雑な地形の中で川の水を利用するために、安定的な水の供給を求めて、台地上を流れる上水・用水から水を引いたのです。こうした分水は水田の用水としてだけでなく、水車や大名庭園の池にも使われました」

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近代以降

宅地化と小河川の荒廃

「ところが明治になると東側台地から宅地化が始まります。末端の用水路は不要になって、埋め立て地が払い下げられるようになりました。一般的に『1964年(昭和39)の東京オリンピック開催を境に、河川の暗渠化が進んだ』と言われますが、実際には川の消滅の時期と理由はさまざまです。例えば、大正時代初期、千駄ヶ谷駅前の現・東京体育館の場所に屋敷を構えていた徳川宗家により千駄ヶ谷三丁目付近の支流沿いで、大規模宅地開発が行なわれ、河川は直線化され、昭和初期には一部が蓋をされています」

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下水道計画

「河川を利用すれば、谷間の高低差がそのまま生かせます。ですから、河川を下水道として利用していこう、という計画が出されたのは必然だったのかもしれません。  1916年(大正5)の東京都市計画郊外下水道ではすでに多くの川が下水道として利用することが予定されていました。図で赤くなっているところが、明らかに河川を利用したとわかっている下水道です。ただし、この計画はなかなか実現しませんでした。ですから、1964年(昭和39)の東京オリンピックの際の暗渠化は、何十年も経ってそれがようやく完全に実現したということになります。ただし、図に描かれているように、大正時代の下水道計画では、渋谷川本流は蓋をする計画ではありませんでした。現在のように下水道の千駄ヶ谷幹線として蓋をされる計画に変更されたのは、戦後、1950年(昭和25)の東京特別都市計画下水道のときです」

「現在は清流復活事業で、並木橋付近から落合水再生センターの処理水が入れられていますから、そこより下流には水があるんですが、稲荷橋から並木橋の間にはほとんど水が流れていません。
 渋谷川の水は、いったいどこにいったのか。稲荷橋の所から暗渠になった川を遡ると、渋谷川と宇田川の合流地点からもっと上流、現在の宮下公園の辺りから先では、下水道幹線としての渋谷川(千駄ヶ谷幹線)に、汚水も湧水も一緒になって流れています。稲荷橋で開渠になった渋谷川に、その水が流れてこないのは、コンクリートの堰で渋谷川下流部と分流されて、明治通りの下を通り芝浦水再生センターに運ばれるからです。ただし、大雨のときは下水道幹線に収容しきれない汚水が、コンクリートの堰を越えて渋谷川~古川に流れ出します」

 田原さんのガイダンスに続き、中村さんに、下水道化された渋谷川の複雑な時代背景についてお話いただきました。渋谷川の現状は、田原さんからご説明いただいたように、かなり複雑です。中村さんは、「もしも、この渋谷川を再生することができるならば、ほかの都市河川でも再生ができるのではないか」という野望を持っているといいます。

 渋谷川はさまざまな切り口を持つ川ですが、中村さんには高度経済成長期に山の手の河川が一気に暗渠化したきっかけになった〈36答申〉からお話を始めていただきました。

なぜ、渋谷川が暗渠になったのか?-渋谷川から考える、これからの都市河川再生

「1909年(明治42)の地図と比較すると、78%の川がなくなっています。専門用語では、なくなった川のことを廃止河川といいますが、廃止河川には暗渠化と埋め立ての二通りあります。「暗渠化」は河川に蓋をすること、「埋め立て」は河川の中に管を埋めてその中に水を流す方法です」

(中略)

渋谷川を再生するには-渋谷川をめぐる水循環

「では、渋谷川を再生するにはどうしたらいいのか。私は、河川再生に向けたいくつかのヒントがあると思っています。
まず一つ目が、下水道方式の問題です。渋谷川の上流部は暗渠化され合流式下水道となっています。下水道形式には二通りあって、合流式下水道ともう一つは分流式下水道です。合流式下水道の長所は、工期が短いこととコストが安く済むこと、そして下水道敷設のスペースが不要、ということです。ですから、分流式下水道はそれと比較してなかなか都市部では採用されにくかったわけです。また、合流式下水道だと、雨水や湧水も汚水と一緒に流れてしまうという、大きな問題もあります」

「都市河川再生をどう考えるか、という私の考えを申し上げて、みなさんが渋谷川を歩いたあとに感想をうかがいたいと思います。

①川は、人(社会)と自然の結節点です。現在の河川の姿は『長い歴史を通して河川に加えられてきた人間の行為が積分されたもの』(高橋裕さん)ですから、人間活動が濃密に繰り広げられてきた都市の中の川は、より一層、その積分値が大きいはずです。その結果として、都市河川をめぐる水循環は、目の前の川の姿だけでは収まらなくなっています。

②水は高い所から低い所に流れます。元来、その川が持っていた地形を読み解くことが川の理解には不可欠で、それの地形的特徴を生かすことが持続可能な河川再生の第一歩、と考えます。

 この二つの視点を頭に置きながら、実際にフィールドに出て川の姿を見て頂けると、より一層、渋谷川への理解が深まると思います」


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大変だ!

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大寒気が訪れて

今朝の最低気温はマイナス11.1℃!!!


でも

思ったより積雪は大したことがなくて

良かったのですが


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今日の富士
朝とてもすっきりと見えていたのだけど
安心していたら
お昼過ぎには雲が出てきてしまった。
でも
なんだかすごおい雲だ。





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今日は
いま現在、買おうかどうしようか迷っている土地に行って見た。


そうしたら!!!
4頭くらいの
ドコドコとしたイノシシの足跡が縦横無尽に!!!


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うそ!うそ!うそ!!!


わたしたちが悩んでいる土地は
なんとイノシシの獣道!


ここに家を建てたら
いったいどういうことになるのだろうか?







さあて
昨日の夜の12年ぶりの友人の電話とは・・・


かなりプライベートな内容なので
アメンバーさん限定で書かせていただきます。


(大して面白い話しではありません。あしからず。
ただ、その電話によって、代官山に行くことになったという話しです。)


動かされていること

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アメンバー限定にしようと思ったけど

大してプライベートな話しもないので

普通記事にしますね。




昨日の晩、電話が鳴った。




懐かしいミミの声。

うわあ、どうしたの?




聞けばわたしに12年ぶりに電話したら

番号が使われていないとのことで

Yなら知ってると思って教えてもらったんだよ。」という。

Yは今まさに今「ココロの旅)に出てくる登場人物だ。

父が亡くなる3週間前に別れた男、そしてその後ビジネスパートナーとして

ともに会社を立ち上げた人物。そして今年のダイアモンド富士も

ともに眺めた何故か深い縁の人である。)




あれ、あれ

そうだっけ?

そういえば電話番号変えたかもしれない。

わたしは自分の携帯には電話帳をそのまま移しているので

特に自分がかける分には不便していなかったのだ。




「ごめん、ごめん、そうだった?」

わたしはたくさんの東京の友人から

行方不明者だと思われているみたい。




こちらに来て12年。

東京時代の、つながっている友達もあれば

切れてしまったご縁もある。

それはどちらが深いということもないような気がする。

短く太く濃密なご縁もあれば

長く希薄なご縁もあるし

新しいご縁もある。





「去るものは追わず、来るものは拒まず」

これは父の教えであった。

執着は苦しみを産むから

風のように生きるのだ。





この父親の教えは多くの誤解を産んだ。




わたしが人間関係において

軽薄で不誠実で無責任に思われることがあったからだ。



父のような人徳のある人間なら
「さすが!」といわれるけど

わたしのような青二才の女性(?)がすればそのような風評があったのは否めない。

それはすっかり青二才ではなくなった

現在まで続いているかもしれない。






さて

ミミが電話をわたしにしようと思ったのにはわけがあって




「ヒロがね、西麻布で15日にイベントやるんだって!

riyu、来れないかなあ、と思って!!!」





「へえ~~~。」




「それでね、まっちゃん覚えてる?

まっちゃんが今代官山に住んでいて、そこにヒロは泊まるんだって。

覚えてる?今ヒロは益子に住んでいるでしょ?」





きゃ!でた!代官山!!!

わたしは姉の話から、昨日も代官山の猿楽古墳の話をアップしたばかり。




それでね、よっちゃんやユミちゃんも来るのよ、

だから,

riyuが来るならうちに泊まれば、と思って電話したのよ~!





わたしは頭がこんがらがった。

なんというタイミングなんだ。





今書いている「ココロの旅」では

ヒロやよっちゃんの関わっていた「クラブジャマイカ」の話しはすでに書いたし。




それに、「姉の不思議な話」に出てきてとても深く関連してしまう

代官山のヒルサイドテラスにあったわたし達(わたし、ミミ、そしてYなどの大部分の登場人物)の勤めていた会社「Bグループ」のことが

走馬灯のように頭をグルグルに取り巻いた。





「東京」

それは、わたしにとって

「脱出すべき檻」だと思っていたのに。



バビロンの捕囚だったわたしは

ここ富士山にきて

初めて自由の身になれた。


そんな気さえしていたのに。




ここへきて

それは脱出すべき檻ではなく

麗しい、父とわたしの共通の故郷であったことに気がついた。





わたしはただ今、富士に配置されているに過ぎない。

いや、違うな。


わたしはあの「豊多摩郡淀橋」に父とともに配置されたのだ。




でも

何のために?





懐かしいミミと一時間くらいおしゃべりをして

15日はいけるかも知れない、と電話を切った。

でも現実的に考えると

西麻布に夜の七時から始まるイベントにはとても行けない。

何故なら先にS先生の「自然史研究会」のセミナーの申し込みをしてしまっていたからだ。

やはり15日は無理だ。


でも

皆に会いたい以上に

代官山に行きたい。

行って確認したいことがあるのだから。





その姉の言ったトンネルと

猿楽古墳と

それから渋谷川に行って感じてみたい。



何故いまそこがわたしをわざわざ富士から呼んでいるのかを。




わたしは巨大なものに動かされているのを感じている。



ひとつひとつは小さな点であるのだが

なにかもっと大きなものに

今は操られているのだ。


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都知事選

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いよいよ都知事戦

あ、違った

都知事選まであと三日を残すのみとなりました。


すでにまるで結果が決まっているかのような

いや~な空気を感じます。


富士山世界文化遺産登録や

オリンピック東京に招致決定のような昨年の

一見明るいニュースのあと

何ともいえない不安感を抱いた

あの一瞬のようです。

(つまりもうすでにたくさんのお金が動いているのでは?という感覚)



でも

まだ未来は自分で決められるとするのなら

いや、まだ選べるんだと信じるとしたら


すでに東京都民ではないこのわたしが

何故か今年になって東京の水脈や龍脈のことで動かされているので

都民の方々の潜在意識に何か訴えたいと思います。



いつものように古い記憶が甦って来ました。

わたしが子供の頃から成人にいたる、12年間

いわば非常に多感な年頃だった頃

東京都知事は

「美濃部亮吉さん」でした。


この共産党と当時は社会党を支持母体とする「革新都知事」で

12年間も都民がこの人を選んだということは

わたしは何かを誇りに感じます。


高校生の時、都の美術コンクールで新人賞を受賞したときも

都立高校の卒業証書にも、この方の名前があるのがなんだか今でも誇りです。


{0E5AB643-C298-40CE-B55A-06A8E2AFBCF9:01}

また父の話になってしまいますが
ファザコンなので許してくださいね。


父は明治生まれでしたので
美濃部さんのことを「みのべくん」と呼んでいました。
一都民がなんとまあ、なのですが

「みのべくんは顔がいい。
あの人相は悪いことをしない。
悪いことをするやつは顔でわかる。」
と、たいへんひいきにしていました。


美濃部さんは都民により三選されたのですが
最後の1975年の都知事選の時には
事実上、石原慎太郎氏との一騎打ちで
当時日本で一番高いビルだったと思うのですが
家からも見える「京王プラザビル」の屋上に美濃部、石原両氏のイラストが掲げられ
開票結果が出るたびに票グラフが積み上げられて
息を呑んでそれを見守っていた記憶があります。
そしてまたもや「美濃部さん」が三選されたことで大盛り上がりをしたのでありました。

あんなに白熱していた、それでもちゃんと都民がリーダーを選んでいた
1975年の都知事選挙の京王プラザビルのことを検索してみたのですが
探し当てられませんでした。

どなたか同じように覚えているかたはいらっしゃいませんか?



さて
三日後に迫った都知事選ですが
一番東京にとって必要なものは
オリンピックなのか、経済なのか、命や健康なのか
なんなのでしょうか?


ぜひ
ココロの目で人物を選んでいただきたいと思います。


ちなみに父がまだ生きていたら


「この人は人相がいい。
悪いことをしなそうだ。」
といって迷わずこちらの方を選ぶんだろうな。

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「うつのみやくん、彼はいいよ。」
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