農鳥でた!
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ココロの旅 「Dog Year」
レイ・ブラッドベリの小説のように
たそがれの11月がやってきた。
父が逝って49日が過ぎたころ
会社から新宿の家に戻ると、
父の部屋がすっかり綺麗に片付けられていて
ダンボールが積み重なっていた。
玄関の父の靴もすっかり無くなっていて
母が「亡くなった人のものをいつまでも置いておくと成仏できない」
と、どなたかから言われたらしい。
家に帰れば、この家を売ろうと母と姉が算段していて
「あなたはどう思う?」と意見を求められた。
わたしは父のように答えた。
「あなたがたの好きにして」
春夏のコレクションのカタログ作りでそれどころではない。
Yが立ち上げた新しいブランドの販促活動と重なって
目が回るような忙しさだ。
また、どこか海外に逃げて充電したくなってきた。
そろそろ年末にどこに行こうか決めておかなくてはならない。
そんな頃
Sがタイに行かないかと提案してきた。
カンボジア、ミャンマー、タイの国境にある
ゴールデントライアングルに行きたいのだという。
わたしは中南米ばかり集中的にひとりで旅行してきた。
メキシコ、キューバ、ペルー、ジャマイカなど。
考えてみたら、アジアへはフィリピンくらいしか行ったことがない。
タイか・・・
俄然興味が湧いてきた。
毎日がただものすごいスピードで流れていく。
秋には暖房をガンガンかけて春夏物の撮影。
春にはエアコンを効かせて秋冬物の撮影。
年末年始は海外に行って、真っ黒になって帰ってくる。
まったく季節感のない暮らし
不自然、反自然な暮らしを繰り返していた。
「○エと離婚が成立したよ」
1988年、11月
Sが言い
家に来て欲しいといった。
アトリエとしてSが借りていた目黒のマンションに
初めて足を踏み入れた。
11階に玄関があり、12階がリビングとベットルーム。
12階からものすごい勢いで喜びいさんに犬がSに突進してきた。
まるで弾丸のように。
噂には聞いていたが
それが愛犬Pとわたしの初めての出会い。
小学校高学年くらいまで、家で犬を飼ってはいたが
それからはずっと猫だらけの暮らしをしていた。
犬は久し振りでどのように接していいかわからない。
それまで面倒を見てくれていた○エさんの代わりに
週3日京都の本社に行っている間、
この犬の面倒を見て欲しいというのだ。
犬は大好きだから大丈夫だよ。
「犬じゃない。Pだ。」
突進してきて体中で喜びを表現している。
しかしわたしは無視して
ひたすらSにアイコンタクトをしている。
「おかしな生き物だなあ
猫とは全ぜん違う・・・
大丈夫かしら?
わたしに懐くのかなあ。」
この年から今日まで
さらにおそらくわたしが死ぬまで
わたしは犬無しでは生きられない人生になってしまった。
犬の一途さ、愛らしさ、懸命に生きるということ
それを教えてくれたのも
犬との接し方を教えてくれたのも
また、Sであったのだ。
亡き父からメッセージが来た!
虹の橋を渡っていた愛おしいものたちは
どこへ行ってしまうのだろう。
いずれは誰でもが渡るその橋を
先に逝ってしまったものたちはどうしているのだろう。
今年の1月9日に
犬の散歩中
「あ、午年がやってきた。」
何故かは知らぬが突然、過去の話を「書かなくちゃ」と思い
1990年のことを書き始めた。
あたかもそれを書かなくては前に進めないとでもいうように。
それはとても大きな自分の魂の邂逅の旅の始まりとなった年であったので。
しかし書いているうちに
それがどこから基点であったのか
その二年前に父を亡くしたことから書かなくては、と思い立ち
さらにそこまで遡って書いてみた。
何故突然書き始めたのだろうか、
何故そこからなのだろうか。
糸を繰り出していくと
どんどんそのころの記憶が鮮明に思い出される。
いつしか泣きながら書いていた。
そのときの哀しみの再体験。
今思えば浄化の旅が始まっていたのだ。
1月23日の昼間
台所で洗い物をしているとき
ふと
「パパからメッセージが来たりして・・・」
そう思った。
以前、父が死んでから数年もたたぬころ
目黒の居酒屋さんで
色々な霊が見えてしまう大阪の京子ちゃんと食事をしていたとき
猫のちびの話をしているわたしの後ろに
突然父が姿を見せて
その話しは以前「なんでも見えてしまう京子ちゃんが、眼鏡のおじさん後ろにいてはると言った」という記事にしたことがある。
http://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-11224085706.html
わたしの姉はけっこう霊感の強い人で
家のソファに座ってにこにこしている父を見たという。
でも、どんなに愛していても
わたしには見えない、
京子ちゃんのように見える人とわたしがいるときに
巧妙に一度だけ出てきてわたしに「いつもいるよ」と教えてくれたのだろう。
その日、洗い物をしているとき
メッセージをくれるとしたらあの方にじゃないかしら
と
ある女性を思い浮かべた。
そして
シャーリーマクレーンの「アウト。オン・ア・リム}のように
死んだ人と自分にしかわからないキーワードって
父とわたしの場合なんなのかしら?
そんなことをぼんやりと思っていた。
繰り返しになってしまうけど
誰からだったらわたしは信じるだろう。と思った。
わたしの記事を読んでいる人なら誰だって
「今あなたのお父様からわたしにメッセージが入りましたよ」
そのように言うことはできる。
わたしが父だったら・・・
わたしが一番信頼しているあの方のところに行くなあ
そうぼんやりと思っていたのだ。
そうしたら!
驚くべきことに、その夜
その女性からメールが来ていた。
わたしの記事「ココロの旅」を読んでいるとき
頭の中にどなたかからのメッセージが入ってきたというのだ。
もう本当にわたしは驚いた。
こんなことってあるの?
それは一部しかご紹介できない。
「やっと思いだしてくれたね。」
「良く思い出してくれたね。」
それ以外にもあるのだが
ブログで書いてよいのはこの言葉だけ。
今この言葉を改めて読んで
そうだった・・・と気がついた。
わたしたちは死者を忘れて生きている。
その存在を都合のよいときだけ思い出しては
頼りにしたり
守ってね、と御願いしたり・・・
これって神頼みといっしょなのかもしれない。
神社に行ったときだけ
「いやさか、お働きくださいますよう」
ほんとうはずっとずっと守ってくださっていたのに
都合のよいときだけ手を合わせたり
話しかけたり・・・
ほんとうにごめんなさい。
そして
愛しています。
ずっと、ずっと、ずっと。
さて
わたしが父とわたししかわかりえないキーワードがあり
それはシャーリーの「アウト・オン・ア・リム」
「枝の先の果実」に値するものなのだが
それも事情があっていえないのだけれど
やはり初めに
「今年は午年」から始まったように
キーワードは「馬」だったのです。
今日はここまでしかお話はできないのだけど
いつかまた続きのお話ができる日が来るかもしれません。
やはり
魂は永遠のようです。
誰もが大きな深い愛の中で生きているようです。
ありがとうございます。
合掌
謎の愛鷹山へ
今日は久し振りに
Yとランチをしようということになり
山中湖へ行った。
ココロの旅 「黄金の三角地帯」
Sはそのころ「クン・サー」に興味を抱いていた。
麻薬王のように言われているけど
少数民族の独立のためにアメリカに利用されたあと
アメリカに裏切られた男だと信じていた。
わたしはその本を読んだけど
彼と異なるところに興味を惹かれた。
それは
少数民族の民俗的な部分
食文化や風俗などだった。
特に衣装には心を惹かれた。
そこにいて経済の問題から芥子の栽培を余儀なくされた
アカ族などの少数民族たちだった。
そこは「ゴールデントライアングル」
すなわち黄金の三角地帯。
タイ、ミャンマー、カンボジアとの国境である。
1988年のうちに
わたし達はバンコクに旅立った。
Sとのはじめての海外旅行。
バンコクからチェンマイに飛び
そこからチェンライという村にバスで行く。
そこからは舟。
何かの川を遡り「エレファントタクシーステーション」まで行く。
そこからは象に乗って。
ひたすら
少数民族の村へ。
カレン族の村で一泊
アカ族の村で一泊ホームステイという二泊三日の旅をした。
夜はカレン族のガイドが途中で捕まえたアルマジロの煮付けに舌鼓。
なにからなにまでカルチャーショック!
高床式の家が点在する少数民族の村は
なんだか故郷に帰ってきたみたいに懐かしかった。
すごく面白かったのは
そこにはわたしたちの日本の神社にある
鳥居そっくりな門がどこの部落にもあって
そこに「鳥」の木彫りが止まっていたのだ
村の入り口は結界でもある。
そこに鳥を止まらせることによって
村が魔物から守ってもらえると
未だにアカ族の人たちは信じている。
これこそが鳥居のルーツ!
そんな発見はとてもファンタスティックだった。
そのあとはまたバンコクにもどり
Sのお勧めの地元の人しか行かないビーチに向ってひたすら南下した。
マレー半島に向ってバスで行くと
顔もスタイルも全ぜんバンコクと異なる顔の人たち(マレー人)の坩堝となっていく
そこのビーチの名は
確かチャームビーチ。
一泊二人で1,000円くらいのコテージに泊まり
朝は60円くらいのタイラーメンを食べて
キッチュな時間を過ごした。
何もかもが新鮮で楽しかった。
ある朝
いつものように朝食をとりに屋台へ行くと
「ジャパニーズエンペラーが死んだ!」
屋台にいた人びとがわたしたちに教えてくれたのだった。
そのときのタイの新聞は
わたしはまだ取っていて
探せばどこかにあるはずだ。
大いなる昭和の終わり・・・・。
それは
1989年
1月7日。
今から25年前のことである。
(今回久し振りにクン・サーの事を調べてみたら
彼は2007年に他界していた。
このうちタイ北部に逃れた部隊のひとつ、国民党軍第27集団軍隷下の「第93軍」は、共産主義 化した中国からの国土奪還のための資金集めとして、民族、国境紛争の絶えなかったタイ北部に定住、少数民族解放運動を建前に武装を続け、アヘン 栽培で資金集めをしていた(そのために「アヘン・アーミー」「ドラッグ・アーミー」とも呼ばれた)。その第93軍兵士とシャン族女性の間に生まれたのがクン・サである。
クン・サ本人の経歴は明らかでないが、成人後、国民党残党と袂を分かち、アメリカ合衆国 (CIA )の支援のもとシャン族・モン族の独立運動を大義名分とする兵力2000のモン・タイ軍(MTA)を結成。この期間に麻薬 ビジネスを大々的に展開し、黄金の三角地帯 (ゴールデン・トライアングル)と呼ばれる世界最大の麻薬密造地帯を形成した。
だがアメリカが麻薬ビジネスの取り締まりに力を入れるようになり、やがてクン・サは国際指名手配される。そのためタイ北部から国境未確定地帯のミャンマー奥地に逃げ込み、「シャン族独立」を掲げてミャンマー軍と永く対立していた。しかし、ミャンマー軍との実際の戦闘はほとんど生じず(MTAは、むしろ同じく反政府勢力であるビルマ共産党 と激しく軍事衝突した)、1996年 1月、ミャンマー政府との間で突然停戦合意をして投降した。投降後はミャンマー政府の庇護に置かれ、首都ヤンゴン で生活。麻薬で得た資金を合法ビジネスに転用して、ミャンマー・タイにまたがる財閥を作り上げた。アメリカ政府はクン・サの身柄の引き渡しをミャンマー政府に要求したものの、同政府はこれに応じなかった。
なお、クン・サの転向と第93軍指揮官である段希文が死去したこともあり、第93軍の元兵士および家族は、クン・サのミャンマー政府投降以前の1987年 に武装放棄、タイ国籍を取得している。2007年10月26日に、ミャンマーのヤンゴンにて死去。
亡き父からメッセージが来た!
アメンバー限定公開記事です。
海抜11.1m!
富士の三足といわれる三つの山があり
何度かこのブログでも紹介しているのですが
かぐや姫伝説のある、足和田山(古くは足機(あしはた)山)
金太郎伝説のある、足柄山
そして位牌が岳という山頂に巨石文明があったといわれる
愛鷹山
こちらに関してはわたしはご縁が薄く
とっても気になってはいたのですが
昨日、初めて麓の探訪をして見ました。
(謎の愛鷹山)
http://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-11758462953.html
それは
富士の古代文字である「飯縄文字」が発見されたと言う
「飯縄神社」にいきなり行くことになったからでした。
御殿場のあたりからカーナビで「飯縄神社」といれても
出てきませんので
「飯縄」と入れると
なんと長野の飯縄ばかりでてきて、このままでは信州に連れて行かれてしまいそう。
加茂喜三さんの著書には
「超古代史の山守った飯縄神社」は
愛鷹山麓を東進する岳南鉄道の終点、江尾駅から程近いとのこと。
えのお駅とカーナビに入れて
なんとか駅までは辿りつきました。
そこは何と
無人駅!
駅前の住宅で黒猫をイイコイイコしている
サラリーマン風の方に聞いたら
何と奥様に電話して教えていただきました。
以外と知られていないのかしら?
本当にこの駅から歩いて五分くらいだったのですがね。
いきなりすでに
愛鷹山に登るスロープとなる。
目の前に本に出ている鳥居が!
そして鳥居の真ん前の電信柱には!
ココロの旅 「自由と平等」
1945年の第二次世界大戦ののち
世界は二つに分かれた。
東側諸国と西側諸国に。
いわゆる冷戦の時代が訪れた。
資本主義と社会主義(共産主義)
日本では社会主義と共産主義を一緒くたしてしまう傾向があるけれど
海外に行くと
だから日本人は政治音痴なのだ、といわれてしまう。
「ソシアリズム」と「コミュニズム」は違うのだ、と。
民主主義と資本主義もイコールではない。
1989年の昭和天皇崩御のあと
時代は平成になったが
世界では「民主化」の大きなうねりが訪れて
ソビエト連邦は崩壊した。
初めての大統領はわたしの大好きなゴルビーとなって
「ペーレストロイカ!」などとわたしは歌いながら仕事をしていた。
1987年の正月に単身キューバに行ったわたしは
パパ・へミングウエイとフィデル・カストロを愛していたが
「コンパニェーロ」(同志)という言葉がアナウンスで鳴り響くこの国の
コミュニズムも
可哀想なくらい美味しくないこの国のサンドウッチと
天国のような味のモヒートの狭間で、
ファンカラティーナのリディムの中に泡立ってなじんでいった。
「革命」
その国ではその言葉に酔いしれていた。
しかしソシアリズムも、コミュニズムも
この惑星の失敗だったのだろうか?
ベルリンの壁が崩壊するという歴史的瞬間の少し前
あの事件が起きた。
1989年6月4日
「天安門事件」
5月にスリランカにSと二度目の旅行をしたわたしは
またしても浮かれていた。
「タミール人問題」で内紛を繰り返していたエメラルド色のこの島で
「フリーダム!」と叫んでいた若者たちに共感を覚えた。
いまだカースト制度が残るこの国で
でも確かな民主化の手ごたえを感じたのだった。
世界はイデオロギーの対立をも乗り越えて
平和と平等に向っているのだ。
そしてそれが叶うためなら
わたしたちは何だってするよ!
本当は何も出きないただの「野次馬」だったのに
この世界の中でなんでもできそうな気がしていた。
Sもわたしも・・・
何にもできなかったのに。
「天安門事件」が起きたその日
Sは京都に行っていて不在。
わたしひとりで
深夜のCNNで
恐ろしいことがまさに行なわれようとしている報道を見ていたのだった。
民主化のリーダーや運動家が占領した天安門広場に
人民解放軍の戦車が四方から突入して
彼らを踏み潰したのを・・・
ココロの旅 「摩訶不思議な大国」
わたしがその巨大な国に足を踏み入れたのは
人生でそのときだけだ。
1989年
25年前のチャイナ。
6月4日
天安門事件の後。
それからは連日のように
CNNのニュースではこの事件のことを繰り返し伝えていた。
わたしはこの国で
何故、なにが起きているのかが知りたくなった。
よく考えてみたらこの国は、お隣でありながら
それに
毎日のようにこの国の文字、漢字を使っているのに
この大国のことを
何一つ知らないことに気がついた。
「いったいここで何が起きているのだろう?」
すでにこの国には戒厳令が引かれて
日本人は渡航のビザが出なくなっていた。
わたしたちが連日のようにそのアジリテーションを聞くことができた
「学生運動家」も
あるものは死んだらしい、
あるものは当局に追われて、南のほうに逃げたらしい。
逃げろ、逃げろ、生き延びろ!
時期を待つのだ。
自由はきっと来る。
たとえ、どんな国にも・・・。
「天安門に行こうよ
わたし、本当のことが知りたいんだよ」
でも、行ってどうなるの?とは
Sは言わなかった。
「行こう、、
天安門に行こう。」
それで決まった。
「お前はいつも
本当のことが知りたいんだろう?」
その後はよく
Sはわたしのことをそう言って理解してくれた。
その二ヵ月後
1989年8月
わたしたちは北京の空港に降り立った。
物々しい雰囲気。
空港での荷物のチェック。
あの事件以来
わたしたち二人は
記念すべき初めての日本人旅行者となった。
姉の不思議な話 ① 「清子おばさんと清正」
まだ連載中の記事も書いていないのだけど
昨日の姉の話しがあまりにも面白かったので
そちらを先に書いてしまおうと思う。
わたしのたったひとりの姉が
東京から富士山にやってきた。
プチ家出だ。
昨日はわたしの家に泊まり、夜中まで久し振りにおしゃべりをして過ごした。
あんなにゆっくりと長時間ふたりで過ごしたのはどのくらいぶりなのだろう。
今朝早くに明るい表情で東京に戻っていった。
12月の終わりに東京でも振った雪で、姪が転んで肩を痛めてから
ずっと孫たちの世話でたいへんだったのだという。
人生たまには息抜きが必要なのだろう。
我が家は家族仲がいい方だと思う。
毎年二回は総出で墓参りをする。
母と姉家族、姪の家族とわたし達夫婦と最近では甥のGFまで加わって
総勢11名(ありゃまた11だ!)
姪のところは一歳と二歳の年子のチビたちがいて
それが姉のお孫ちゃんになるのだが、その11名が動くとなると大騒ぎだ。
そんなこんなで少なくともわたしが富士山に移住してからは
姉とふたりでゆっくりと話しをする、ということがなかったのである。
若いときから姉はわたしと違い、
ある種の不思議な力があった。
とくに先祖、父方の先祖からの加護と、長女としての役割があるようで
よく「夢枕に誰それが立つ」という形で現れた。
わたしと母は半信半疑で
いつも「また~」などと言っていたけれど
半分は姉の思い込みだろうと思っていた。
姉はシングルマザーで最初に女の子(現在は結婚して名前が変わった。)
そのあと男の子を産んだ。
私の父方の家系は代々男が立たず
姉が産んだその子はなんと
父以来の85年ぶりの男子だったので、その子が生まれなければこの家系は絶えていく運命にあったはずだ。
一度も結婚しなかった姉がふたりの子供を産み、立派に育て
二度も結婚したわたしが子供を産まなかったのは皮肉な話しだけど
これがわが家系の真実で、なんだかそこで+-ゼロになり
帳尻があってしまった。
姉が男の子を産んだ日
これは夢ではなくて、死んだ父の姉たちふたりが出てきたという。
そうして「よくやりましたね、お疲れ様」みたいなことを
ニコニコ笑って言ったという。
その父の亡くなる一年前と二年前に相次いで亡くなった二人の姉の話は
ココロの旅という記事に書いてある。
http://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-11754944678.html
姉は色白で、二番目の姉に良く似ていると、小さい頃から言われていた。
さて、その男の子も立派に育って、今年二十歳になる。
そんなこんなの昨日の話し。
「わたし、二回も高輪に行かされたのよ。」
と、姉がいう。
高輪?
行かされたって誰に?
港区白金にある高輪は
父の一番上の姉が嫁いだところで、元祖シロガネーゼということか。
戦争から帰ってきた父が
新宿に家を建てる前はそこに住んでいたと聞いたことがある。
先祖代々の墓は昔は高輪のどこかにあって、
わたしが幼少のころ、そのお墓のまえで小さい手を合わせたのを覚えている。
しかしその後はお寺ごと大山のある伊勢原に引越ししてしまい、しばらくはそこにお墓まいりをしていたが
父の死後に母は全ての骨壷を移動させて富士山麓にお墓を新しく建てた。
もともと高輪にあった立派な墓石も、今は富士山麓の富士宮にあり
富士山を仰ぎながらご先祖様も父も眠っている。
「「三田行きのバスに乗ってください」っていうのよ。」
「誰が?」
「わからないけど、そういうのよ。それで
清正公前でおりでください、ていうんで降りたんだけど・・・」
「セイショウコー?なに?聞いたことがあるような・・・
どんな字書くの?」
「清く正しいでおおやけの公だよ」
何しろそこに二回も連れて行かれたとのことで
何故そこだったかわからないけど、清ちゃん(一番上の姉は清子というのだ!)は嫁にいったので、高輪のどこかのお寺にお墓があるはずだという。
「清ちゃんが来て欲しかったのかなあ・・・」
わたしはセイショウコーが気になった。
話を聞きながらI phoneで検索してみたら・・・・!!!
覚林寺(かくりんじ)は、東京都港区白金台一丁目にある、日蓮宗の寺院。山号は最正山。加藤清正の位牌や像が祀られていることから清正公(せいしょうこう)と通称される。付近の住民からは「清正公さま」と呼ばれ、勝負祈願の寺として信仰を集めている。旧本山は大本山誕生寺。潮師法縁。
「加藤清正だ!」
しかも日蓮宗だ!
う~ん
清正かあ・・・
何が我が家の家系に関係があるのだろうか?
清子おばさんは兄弟の長子で
「その清」の字は父のひいおじいさんの名から取っているようだ。
わが家系に養子で入り
利根川の支流、渡良瀬川のそのまた支流のある川の名が現在のわたしたちの苗字。
そのひいおじいさんのもとの名は・・・
「龍川清六」!!!
それを思い出したとき
話しの流れが大きく変わった。
清六さんのもとの苗字の話をしたあと
(それは姉は忘れていたようだった)
はじめて姉にこんなことを聞いてみた。
ねえ
龍って、どう思う?
そうしたら
話は驚きの流れに!
長くなったのでいったん終わります。
(続く)
ココロの旅 「並べない老子」
あの事件から2ヶ月たったあとの北京の町は
何事も無かったかのように表面だけ装っているのだろうか。
いや、しかし
町には戦車が走り
いたるところに人民解放軍という名の軍隊がいて
整然といて物々しい雰囲気だった。
天安門広場は封鎖されて
軍が占領していたので人民は入ることが許されない。
わざとSは近づいていき
憲兵に銃で制された。
「北京飯店」というその頃は北京で一番有名なホテルに泊まったけれど、そこのレストランは退屈で、わたしたちはすぐに飽きてしまった。
やがてホテルを抜け出して
路地裏の庶民的な店などで普通のチャイニーズが普通に食べているものを見たかったが、タイで味わった混沌とした市場の香辛料の匂いのようなものがここでは見つからなかった。
どうしようか・・・
実は行きたいところが北京の他にもうひとつあった。
それは雲南省
チベットや南はラオスやカンボジアと国境を接する「稲作の故郷」
そして、少数民族の坩堝であるらしい。
8ヶ月前に行ったタイのゴールデントライアングルにかなり近いところに
「シーサンパンナ」という村があり
そこでちょうど「水かけまつり」という変わった祭りがあるということだ。
タイのアカ族やシャン族とルーツ的なつながりがありそうだ。
まずは北京を脱出して、昆明(クンミン)という雲南省の首都に国内線で向うことにした。
しかし、共産主義国は当時全て国営で
サービスやおもてなしという心がない。
キューバはそれでもラテン民族なので、陽気ではあったが、やはり他のラテン諸国とは
何かが違う切羽つまったような少し思い空気が流れていた。
一番驚いたのは
この国の人たちが「並べない」ということだった。
国内線のエアーチケットを買う北京というこの国の首都でさえ
このときは窓口にたくさんの人たちが押し寄せて
並ばずに押しくら饅頭をしている。
そして奇声を上げていると思いきや
自分が欲しいチケットの便と行き先を書いた紙と紙幣をにぎりしめ
後ろから、あるいは横から、
皆が窓口に向って、腕を伸ばしているのだ。
窓口の国家公務員の女性は、一番手前の手ににぎられているものからそれを受け取り
その便があいているかを調べる。
答えはほとんど
「メイヨー(ありません)」
わたしが最初にこの国で覚えた言葉。
どこへ行っても、なにを聞いても
「メイヨー」
「メイヨー!」
「メイヨー!!!」
ぶっきらぼうにそっけなく、その言葉が鳴り響き
その窓口のうしろにある時刻表で仕方なく何度も調べ
やっとわたしたちは北京を脱出するチケットを手に入れた。
首都の北京でさえこの調子なのだから
地方はどれだけのことが待ち構えているのだろう。
しかしこの非日常空間にめまいを感じながらも
摩訶不思議な大国に幻惑され始めていた。
1月30日 午年のスーパームーンは
今年に入ってから何かがおかしい。
シフトが大きく変化したのを
皆が感じているのかな?
ほかのブロガーさんの記事を読んでも
なんだか皆が皆、パラダイム(枠組み)のシフトチェンジの波に乗っているみたい。
わたしもなんだかいきなりカミングアウトを始めてしまったり・・・
これは浄化の一環なのかもしれなくて。
己の体が天と地をつなぐただのパイプ、純粋なパイプになるには
(「天と地」を宇宙と地球と言ってもよい。)
自分自身の中にある詰まっていたものを吐き出さないといけないみたいで
それでなくては「次」のエネルギーが入ってこないみたいだ。
元旦にいきなり新月から始まったこの午年という年に
どのような意味があるのかしら?
どうもおかしいな、何かあるな、と思っていたら
こんな気になる記事を見つけました。
「午年のスーパームーン」
来週は、特に30日のスーパームーンで
エネルギーが変わり始めます。その日は中国の新年の直前で次の日から正式に午年がスタートします。この時のエネルギーはめでたくて個々人にとって素晴らしい可能性をもたらし運命と本当の力に繋がれるようになって多次元の光の存在として生きる手助けをします。
ここでは、今年一年を前進しながら非常に素晴らしく有益な流れにするために幾つかお話します。多くの人と同じように2014年が始まって好不調があったかもしれません。実際そのような状態でしたしまだ続きますが、一般的には去年に比べて軽く感じています。
大きな視点で見ると深くてチャレンジングなエネルギーの流れの中にいて、パラダイムシフトという特徴的な年になります。しかし、たとえ望んでいても変化は楽なものではありません。
先端に位置する2014年
2014年は、文字通り世界が根本から造り替えられ始めるその先端に位置する年です。
これまでも建て直しは行われてきましたし、その変化は2014年以降も続きます。でもエネルギーに敏感な目覚めた人にとっては、今年はもっと強く感じていきます。必ずしもどのような強さなのかは分かりませんが、その背景にあるものを感じるでしょう。
激しさは必ずしも悪いものではありません、長年の夢が現実になり始めて有頂天になって大いに喜ぶこともあるでしょう。また、新しい出会いもあるでしょう。その中にはすぐにその重要性を理解できなくても、後になってそれが分かるような出会いもあるでしょう。そういうことが起こると本当にワクワクします。人生のパートナーや力を発揮するのに必要なものだと直感的に分かります。
同時に、まだ終わっていない過去の問題も現れてそこに光を当てていくことになるでしょう。そういう時は判断したり、怒ったり心配したりしないでください。
DNAの古い問題
そのようなDNAレベルにある問題に目を向けて、それをクリアにするために手持ちの方法や有効な方法を使ってください。表に出てくることは古いことだと思えますが、以前関わって対応した問題の延長であると思ってください。その問題が起きた時に感情的になればなるほど、それに対処することがそれだけ重要になります。それを浄化しクリアにすることによって前進する勢いが増してきます。
ほとんどの今抱える問題はこの人生の幼い頃ではなく、他の人生に端を発しています。長年取り組んできた人ならそれが分かり正しく見ています。聖なる変革者にとってこの人生は過去を根本にまで立ち返ってクリアにし、自分を光り輝かせて光明に進む最大の機会です。
午のエネルギー
中国の新年(旧正月)のエネルギーのトーンを理解すると、前進に拍車がかかります。どのようなことがあるのか、その手がかりが得られます。
例えば午年は火と行動を表します。ここ数年はすることがたくさんあり活発になる傾向があります。一度にする必要はありませんが、今年もその傾向が続きます! ポジティブな点は、もっと軽快に感じて後回しにしてきたことに取り組むことが出来ます。上手くやるコツは、バランスを維持しながらタイミングをはかり、ぴったりすることがちょうどいいタイミングでやって来ることに気づくことです。今年はたくさんのチャンスの可能性があります。聖なるタイミングで行動するためにはそれに気がつくことが必要です。
上手くやるには、落ち着いていることが重要です。すると自分の内なる声やスピリットにもっと繋がります。何かをしたい時には繋がることが欠かせません。今年は繋がってください。
今年の午年はスピリットの力を借りて行動してください。スピリットは広大な所を進み、凸凹した道や障害のある所を進む手助けをしてくれます。スピリットと繋がっていると、豊かさを経験できます。だから流れに乗って受け取る状態でいられ、お金との関係ももっと強くなります。
スーパームーン
2014年、成長して精神的に向上する年になるビジョンを描きプランを立てるために1月30日のスーパームーンを生かしてください。来週の新月は新たな始まりのパワフルな可能性を秘めているのでスーパームーンと呼ばれています。実際今年は2回目(1回目は1月1日)ですが、もっと影響力があります。この時の新月に意図や抱負を新たにするワークを行う(以下を参照)時は、次の2月1日を午年のエネルギーで点火してください。
2014年を大きく捉える
今年を大きく捉えて全体の動きも忘れないでください。まだ分からないアイデアも知って生かしてください。
孤立したところで自分一人だけが進化して新たな人生を創るのではありません。地球という「島」にいますが、実際は宇宙の中に生きています。全ては繋がっています。この意味を理解すれば、スピリットが後押しをしてくれて、その流れにもっと楽に乗っていけます。今年のエネルギーを生かそうと意図してください。完全に自分の人生を引き受けて神聖な創造のダンスをすると決めてください。そうやって成長し、楽しく優しい穏やかな心でいられるようになります。
(エポニーエッセンスさんの記事より転載させていただきました)
http://ameblo.jp/eva-omega/entry-11759378931.html
明日は新月
そして元旦よりもさらに大きなエネルギーのシフトが訪れるようです。
「用意はいいですか?」
ここではそのように問いかけをしています。
「準備、OKです!」
今年はとことん流れに乗ってみましょうか。
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姉の不思議な話 ②龍になってトンネルを?
「ねえ龍ってどう思う?」
わたしの問いかけに姉はきょとんとしたようだった。
「龍って、
だってわたし辰だもの」
だから
干支の話しじゃなくて・・・なんていうのかな
だから
想像の動物としてっていうか・・・
「だからわたし、龍だから。」
もうこれは会話的に変だ。
いくら姉妹の会話であっても・・・
それがさあ
わたしときどき龍になるのよ。
やはり変だよね、この会話って。
「そうそう、わたしも」となればつながっていくのかもしれないけど
わたしはときどき龍になんかならない。
もちろん大好きな馬にもならないし
狼にもならないよ。
それが普通の人間だ。
姉がいうには
姉は以前代官山にお店を経営していた。
それは今は亡き姉のパートナー(つまり二人の子の父親)とともに開いた
輸入衣料の店だった。
そこのすぐそばに
昔代官山同潤会アパートといっていたオリンピックの頃にできた
古いが雰囲気のある集合住宅があったのだが
都市開発で「代官山アドレス」というショッピングセンターに生まれ変わってしまった。
その「アドレス」に行く手前にトンネルがあってね、
と姉はいう。
そこがパワースポットなのよ。
すごいのよ。
そこを通るたびに
わたしは龍になって通るのよ。
そういって姉は両手を前に伸ばして
ウネウネさせた。
上手いねえ!
その動作!
まるで本物の龍のようだ。
(といっても知らないのだけど)
わたしはつまらないところで感嘆した。
へえ
ところで
龍って色々な色があるみたいだけど
お姉ちゃんは何色なの?
そうしたら
まったく間髪いれずに
「白!」
度肝を抜かれた。
性格がキツイので
まっかっかな紅い龍だと思ったよ。
それってそれって
富士山じゃないの・・・
富士山は白龍さんじゃないの?
そうだよ、
だってわたしは富士山に縁があるんだもの。
だからこうやって来るんじゃないの。
ねえねえお姉さま
富士山にご縁があるのは妹のこのわたくしなんじゃないの?
わたしがいるからこうして
お姉さまも来るんじゃなくて?
それがまったく
姉のわたしが富士山に縁があるので
妹のあなたが住んでいるのよ、といわんばかりの勢い。
昔から、この調子だった。
そんなこんなで夜は更けていくのでありました。
あと一回
続きます。
お詫び 「新月は明日1・31です」
まずお詫びです!
情報のソースがアメリカの記事だったために
現地の時間でのお話を記事にしてしまいましたが・・・
http://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-11760512879.html
午年の新月は日本時間では
明日の1月31日
6:39~14:39でした。
しかも今回は水瓶座の新月という意味の深い日!
ごめんなさいね。
でもまだ間に合う!
新月のときは月の位置がどこにあるのかが問題で
水瓶座的なお願いごとをすると良いみたいです。
水瓶座が現すのはまさにアクエリアス的な変革や自由といった事柄。
古い枠組みを脱ぎ捨てて
新しい時代に向うパラダイムに向えるようなお願いごとなどがぴったり!
ところで
私事ですが
(これはわたしの日記なので私事でもいいのですが)
今朝起きてから、ものすごく
感情のコントロールが出来なくなったのです。
ちょっとこれは珍しいくらいのことでした。
いきなり
「いやだ、いやだ、
何にもしたくない!
あれも駄目、これもいや!」
スーパームーンの日で「準備はいいですか?」などという記事をご紹介したのに
自分がこれではいったいどうなるの?
なんなの?何が起きているの?
それで
今日の新月に関して、なにか他の情報はないものかと
検索してみたのです。
そうしたら
新月は日本では明日の1月31日!
そして1月30日
つまり今日の
「ボイドタイム」
というわたしには初めて聞く言葉が飛び込んできました。
それってなんだろう?
さらに興味を持って調べてみたところ
まさにその時間
「魔のボイドタイム」の真っ最中だったのです!
(01:47~13:33)
「きゃ~~~~!」
そして・・・
「なあんだ!そうだったのね・・・」
「この時間帯には、月の効力が弱くなり、普段は抑えられている人間の感情や感覚が過剰に敏感・活発になるとされています。」
ボイド(VOID)とは,英語で,空虚・空白・無駄・無効という意味で、ボイドタイムは、西洋占星術上の惑星がアスペクト、つまり他の星と意味のある角度 (0度,60度,90度,120度,180度)を最後に作ってから、その後、どの惑星ともアスペクトを作らず、次の星座に入るまでの時間のことです。
この時天体の位置関係から、月が地球に対して、どんな星の性格をも反映せず、月の働きが無効になるわけであります。これがボイドという現象であって西洋占星術では、この時間帯をボイドタイムといいます。
月はいろいろな角度で太陽や惑星の性格を反射し,それが絶えず微妙に変化しているために、人間の心の働きにも微妙な変化を与え、また影響を与えられることで人間の心はバランスをとっているのです。
この時間帯には、月の効力が弱くなり、普段は抑えられている人間の感情や感覚が過剰に敏感・活発になるとされています。そのため、この時間の会議はやた らと長引いたり、よい結果を残せないことが多いのです。
また、ボイドタイム中に決断したことや始めたことは、そのときには思ってもみなかったミスがあったり、当 初の考えとは全く違う結末になったりすることが多いとされています。
ボイドタイム中は、良いことも悪いことも「無効」なるといわれています。人は、勘違いを起こしやすく後で後悔をする結果になることになりやすく、また、集中力ややる気がなくなり間違いに気づかずに結局後でやり直す結果になったりします。
ボイドタイムは、2日に1回くらい月が星座を移動する時に短い時には数分、長い時なら1日半も続く場合もありますので恐れる必要はありませんが、大切なな会議や重要な決定は避けたほうが無難です。
また、ボイドタイム時には無用なトラブルや誤解を避けるためにも慎重に言葉を選らぶ必要があります。
あなたも、自分自身の周りで起きているトラブルや誤解をチェックしてみるとその原因がボイドタイムの時に起きていることに気づくのではないでしょうか?
ぜひ、あなたも新月パワーと、ボイドタイムを知ることで夢や目標を達成して素敵な人生を手に入れてください。
(こちらのブログさんより)
http://www1.ocn.ne.jp/~isamu47/moon5.html
それにしても
わかりやすくなったものです、わたし。
ただ
ボイドタイムは二日に一度くらい訪れるので
あまり囚われてしまうと身動きができなくなってしまいます。
大きな自然に生かされていることを意識して
深呼吸などして今後とも過ごしたいと思います。
ちなみに新月のお願い事は
よく「出来るだけ具体的に」なんていいますが
わたしの経験上、
「できるだけ抽象的に」のほうが
叶いやすいように思えます。
そうして
「大きな願い」
たったひとりでも大きな願いをする。
(たとえば地球の平和とかね!)
それが叶ってしまうとしたら
すごくないですか?
というわけで
「Good Luck!」
すてきなスーパームーンをお過ごしくださいね!
明日の06:39~14:39ですよ!
久し振りに今日の富士山
富士山 北麓に鳴動!
今日はまたまたおかしなことが続いていく。
先ほど書いた「ボイドタイム」をやっとすぎて
なあんだ!でほっと一息・・・
なんだかいきなり気分が晴れ晴れするのが
わたしの 単純な構造で
二階の部屋で片付け物などを始めた。
午前中から雨が降り始め
泣きそうだったわたしは「天気まで感情と連動するの?」
と
もう、思い切り泣いてしまおうかとも思ったが
ボイドタイムが過ぎるとあっという間に機嫌が直ってしまったので
まったくいい気なもんだ。
そうしたら!
こんどは
「どおおおおおん!」
と
ものすごい音がして
二階の窓がビリビリと震える。
それが繰り返し
繰り返し・・・・
数分置きだろうか。
雷?
自衛隊の演習?
爆撃?
富士山の鳴動???
下の部屋に戻って、TVをつけた。
雷なら雷注意報が流れる。
何もない。
しかしその音はまだ続いている。
繰り返し
繰り返し・・・
不気味だ。
わたしはYに電話をした。
「ねえねえ、聞こえる・あの音なに?」
Yは富士吉田市の新倉というところにいた。
やはりおかしいよね、ということになった。
「爆撃の音じゃないの?」
うしろでYの息子が
「富士山爆発じゃないの?」
まったくあてにならん。
ちょっとわたし、調べてみるね。
そうしたら
PCが繋がらない。
ネットに繋がらないのだ。
それでも不気味な音は響いている
「どおおおおん」
「どおおおおおおおおおおん」
こんなの初めて!
せっかくボイドタイムから脱却したというのに?
なに?
なんなの?この音は
ここはローカルな町のこと
役場に聞いてみようっと!
「もしもし
住民のものなんですけど
先ほどからすごい音がしているんですけど
雷でしょうか?」
役場の電話に出た男性は
「今調べている最中です。
まだわからないんです。」
「調査中です」を繰り返し
「何かの事態であれば
放送が入りますので
それまでご自分の安全を確保してください」
え~?
それってどうよ!
Yに電話してこういわれたというと
「何?自分の安全は自分で確保しなくちゃならないの?」
どうもそうらしいよ・・・
「どおおおおおおん」
「どおおおおおおおおおおおおん」
またも定期的に鳴り響く。
サイレンも鳴らないし
その後放送も無かったので
なんとか原因が解明されたのかもしれない。
その後
Yからの電話では
「北富士演習場の演習だったみたいだね。
ほら、雨雲が立ち込めてて
鏡の役割をしたんだよ」
つまりはいつもは空に響いてあまり聞こえない爆撃の音が
雲に反射して町に鳴り響いたということらしい。
やがて彼が帰ってきた。
「今日の音、凄くなかった?」
そういうわたしに
「米軍との合同演習だって!」
何々?
うそ~
米軍?
そんなの誰も聞いてないよ~!
会社の人のご主人が自衛隊に勤めているので
知っていたのだという。
今日の音は本当にすごかったのだ。
彼らは富士山に向って
どれだけ爆弾を打ち込んだのだろうか?
富士山
ごめんなさいね。
やはり新月のいのりには
このことも入れなくてはならないね。
「この世から軍隊がいなくなりますように」
「全ての銃を、楽器に変えよう!」
それにしても怖かった!
「どおおおおおおおおおおん」
新月の ホ・オポノポノ
また、何かが動き出した。
朝起きて
いつもしない方向に正座した。
何したいの?わたし・・とぼんやり思いながら
そうしたら左目の端っこに
薄藍色の本が見えた。
それはパソコン台に使っていた机と
父の遺影の飾られたお仏壇の間の隙間にあったので
手を伸ばして見た。
四年ほど前に出会い
つねに枕元においてあった
イハレアカラ・ヒューレン著の
「ホ・オポノポノ」の一冊だった。
「ごめんなさい」
「許してください」
「ありがとう」
「愛しています」
四つの言葉を繰り返し唱えるだけで
潜在意識の中の情報をクリーニングしてしまうという
いわば、魔法の言葉。
古くはハワイの問題解決の方法だという。
その四つの言葉はすでに口癖になっていたが
あまり意識はせずに日々暮らしていた。
本を手に取るのは
どのくらいぶりかしら?
その場で数ページ読んでしまった。
「今日からまたこれだね!」
富士山がきれいだったので
河口湖畔の好きな場所に行き
この言葉をたくさん唱えたかった。
ココロの旅 「驚きの8月15日!」
昆明(クンミン)は
雲南省の首都
1989年のそこは
北京とは異なり
たくさんの人びとの息吹に溢れていた。
自転車で行きかう人びと
スクーターや軽トラックのクラクション
人民服に混じって少数民族の衣装を着た人たちも目立つ。
衣装はアイデンティティなんだ!
タイのゴールデントライアングルで感じたものをここでも感じることができた。
アパレルの仕事をしているわたしたちは小躍りして喜んだし
何もかもがとても新鮮だった。
結果的にいうと
わたしたちはシーサンパンナへは行けなかった。
「水かけまつり」は欧米の観光客には有名らしく
そちらに行く交通手段が取れなかったのだ。
それで、「大理〔ターリー〕」ならバスのチケットが取れたので
そこに向うことにした。
そこを拠点とすれば
雲南の第二候補だった
「玉龍雪山」という聖なる山の麓にある
トンパ文字のある麗里(リーシャン)に向うことができる。
8月15日を
大理の安ホテルで迎えたわたしたちに
その後の人生を変えてしまうようなことが訪れた。
終戦記念日
わたしたちがそう呼ぶその日
今頃日本ではサイレンが鳴り響き
黙祷をするのだが・・・
その日の朝は
派手な爆竹の音で目が覚めた。
その日のことは
ほんとうに忘れられない。
「戦勝記念日」
それがその国のその日の名前。
「抗日戦・戦勝記念日」
たくさんの花火が打ち上がり
この日はいつでも「中華思想」に皆の心を固める日なのだろう。
漢民族、満州族が交互に国を取り合った血塗られた歴史。
世界の中心と自らが思ってきた中華民国は
イギリス、フランス、オランダ、
そしてアメリカがそのあと
「チャイナケーキ」を切り刻み分け合う。
20世紀の歴史の中で
そこに日本が参入してくる。
欧米列強は日本を締め出したい。
いったんは日本がチャイナケーキを独り占めにする。
それを包囲する列強
いわゆるABCD包囲陣。
そこで考えたのは!
人民が武器を手に取り
人民のために立ち上がる。
指揮をとるのはマオ・ツォトン(毛沢東)
民主が蜂起してそれを取り戻せば
自分たちはそれを武器を与え、後押しするだけでよい。
しかしそれはのちに共産党という恐ろしくでかい亡霊を産むことになる。
欧米諸国の失敗。
それで冷戦時代の突入となるのだが・・・
さて
1989年8月15日に話しを戻そう。
この日は
人民解放軍のパレードや
毛沢東をたたえるためのお祭りとなっていたのだ。
人民開放軍が人民に天安門で牙を向いたというのに
いや
だからこそ
人民がひとつになるためには
「共通の敵」が彼らには常に必要なんだということを
このとき理解した。
「共通の敵」は
今日までも
かれらが小国ちと揶揄する「日本」に他ならない。
鳴り止まない爆竹とお祭り騒ぎの中で
わたしたちは一つの真実を知った。
これもまた
この地球で同時に起きている
真実のひとつなのだ。
富士山には連日たくさんの中国人が押し寄せる。
尖閣問題が勃発してからは
いちどは少なくなったが
再びたくさんの方たちが訪れるようになった。
このお隣の大国は
25年前に比べて様変わりをしたと思うのだけど
毎年8月15日のお祭りは変わっていないのだろうな。
それを感じなくては
この国のことが永遠にわからないかも知れない、
と
ふと、思った。
姉の不思議な話 ③共通の前世は?
昔々
母に仙台の里帰りに連れて行ってもらったとき
高瀬川で川遊びをしているわたし達姉妹のモノクロームの写真がある。
とっくに大きくなってしまったあと
写真の整理をしていると
わたしたち姉妹の足元に
ひとつづつ
まるで白いボアのスリッパみたいに
川の中にふたつの存在が写っていた。
ねえ
なあにこれ?と母に聞いたところ
「ああ、あなたたちが気持悪がると思って捨てたと思ってたんだけど
なんだか川で亡くなった人のお化けだったら気持悪いわね。」
でも、
わたしにはとってもユーモラスで可愛い存在に思えた。
白いボアのスリッパには
おそろいの目と口があったのだから。
その前に姉が見た夢の話をしてくれた。
「シンガポールのマーライオンが
ペルなのよ、(ペルは当時飼っていた白い猫の名)
それで海をぴょんぴょん跳んでいるの。」
わたしはその後やはりおかしな夢を見た。
古びた武家屋敷のような土塀の脇の道を歩いている。
いつの時代のものなのだろうか。
するといきなり
土塀の中から
「マーライオン」みたいな小さな白いものが飛び出してきて
「わたしは○○川のものである(○○川はわたしたちの苗字)」
みたいなことを言ったのだ。
子供のころ仙台の高瀬川で撮れた
わたしたち姉妹の足元の白いスリッパみたいなものと
マーライオンはわたしには同じものに思えてしまう。
すべては真実にはたどりつかないかもしれないし
それもまた、楽しいのだ。
夜も更けてきた。
話しの流れは
いったい前世に
どこで出会ったんだろうね、
というとんでもないことになってきた。
「絶対にわたしは好戦的な戦国武将だったと思うのよ。」
そんなことを断言する女性はあまりいない。
でも、わかるよ。
鎧兜が似合いそうだもの。
自分でいうのもなんだけど
夕陽をぼうっと眺めるのが好きで
おそらく水牛か象の背中に乗っていたに違いないわたしが
どこでこの戦国武将にあったのだろう?
おそらくあまり日本には縁が無かったわたしが
何故ここで姉妹なのだろう、という話になった。
{あ!ハワイじゃない?
初めてハワイに行ったとき、
わたしここに住んでたって思ったのよ~。」
わたしは
「ううん・・・わたしはそれは感じなかったなあ」
ハワイには社員旅行で三回行ったけど
日本人だらけで退屈に思えた。
そのころはメキシコやペルーにはまっていたので
母と姉がなんでハワイにそんなに行きたがるのだろうと思っていた。
結局姉はハワイ在住の日本人男性と付き合って
二児の母親になった。
だから姉のハワイの前世は当たっているのだろうな。
「でもね、今一番行きたいと思うのはスペインかなあ」
というので
それならスペインで会っていたかもねえ、というわたし。
でも決定的でもないのだ。
(だいたいこのような話に決定的も何もあったもんじゃないけれど)
そうしたら
いきなり姉が
「あ、シシリー!」
わたしがほぼ同時に「シチリア!」
シシリーは英語かフランス語で
シチリアはイタリー語だ。
そうだそうだ!
「オリーブ畑!」
それだ、それだ!
「ボナセーラ、ボナセーラって
いつも言ってたじゃない?」
わたしたちは別々にあるとき「ゴットファーザー」にはまり
姉はアル・パチーノ
わたしはロバート・デ・ニーロに心酔したのだった。
姉はこの何作にもなる映画のセリフを全て覚えてしまうくらいはまっていた。
それだ
それだ
それだ!
「なああんだ」
過去世を思い出すことは楽しい。
かといって
過去も未来もそして「いま」も
同時に存在するこの世界の中で
過去も今この瞬間に選ぶことができるのだと私は感じている。
大きな宇宙の片隅で
麗しい地球の、美しい日本という国で
名もない姉妹がファンタスティックな過去をこの瞬間に共有して楽しみあう。
夜はどんどん更けていき
笑い転げているうちに
ご先祖様やら、たくさんの龍さんたちや精霊さんたちも
愉快に過ごしてくださったのではないかしら。
姉の不思議な話ももし続きがでたら
またお届けしますね。
すでにわたしの前回の記事「トンネルの~」を読んでくださったK子ちゃんが
今日、そのトンネルに行った見たい。
その報告も
楽しみ、楽しみ。
で
結局
「続きます」