名護市長選、稲嶺氏が再選 辺野古移設に反対http://www.asahi.com/articles/ASG1M52SPG1MTIPE01Q.html
初めてシュノーケルをやったのが
沖縄。
竜宮城ってこんなところかしら?と思った。
沖縄の海よ
いつまでも青く美しくあってほしい。
久し振りに希望のあるニュース!
午年万歳!
初めてシュノーケルをやったのが
沖縄。
竜宮城ってこんなところかしら?と思った。
沖縄の海よ
いつまでも青く美しくあってほしい。
久し振りに希望のあるニュース!
午年万歳!
毎日少しづつ
粉雪が舞う。
1990年に次にわたしが出会ったのは
「ヨガ」でした。
今回そのことを書くにあたって
そういえば、「ヨガ(ヨーガ)ってどういう意味だったっけ?」
そんな好奇心が頭をもたげ
調べてみたら・・・
直接の由来は
「馬のくびきをつなぐ」だったというのです!
「正しい道に行くように、馬を車をつなぐ」
そこから宇宙と魂、魂と肉体をつなぐ修行法と派生したようなのです。
ちょっとびっくりです。
何故なら結局わたしが「ヨガ」を習っていたのは
この午年の一年間だけだったからです。
またしても午年とのことで、小さなシンクロにびっくりでした。
そのころ、わたしは
六本木にある、ヒップホップのダンススタジオに通っていた。
といっても気が向いたときに行く程度だったけど
それよりジャマイカのダンスがお気に入りで
腰を落として踊る現地の女の子にひたすら憧れて
西麻布の「クラブジャマイカ」で
週三回は練習に通っていた。
(というか、遊んでいた。)
時はバブルで、いわゆるお立ち台のある「ディスコ」には
ワンレン、ボディコンの女性たちが扇子などを振って踊っていたらしいけど
わたしたちの仲間はまったくそちらには興味が惹かれることはなく
「ピカソ」とか「ブルー」といった
霞町や西麻布の小さなダンスクラブで
知り合いのDJがプレイする日をねらって
ナイトクラビングを楽しんでいたのだ。
そんなわたしが
いきなり「ヨガ」に通い始めた。
「ヨガ?」
回りはほんとうに驚いたに違いない。
自分がどれほど愛していて
どれだけ共にいたいと願う存在とも
やがて
別れは訪れる。
この三次元地球では
肉体は永遠ではない
わたしは1990年のことを突然書こうと思い立ったのだけど
やはり、父の死
1988年を乗り越えたところから始めなくては
今日のわたしにたどり着けないのでは、と
思い始めた。
それで
少し父の話を書こうと思う。
1・父の生
父には姉が二人いた。
その姉妹の古い写真を見ると
たいへんな美人で
まるでハリウッド女優のように日本人離れをしている。
その姉ふたりに大学まで出してもらって
大変可愛がられて父は育ったようだ。
父の母親、つまりわたしの祖母は、父の父親、つまりわたしの祖父が若くして亡くなると
渋谷の道玄坂のお茶問屋の旦那と再婚をした。
それで父は自分のおじいちゃんと、姉二人に育てられ
大学卒業後は何故か絵の道に入った。
戦争に行き、帰ってきたときには東京は焼け野原で
画材も何もかも焼けてしまい
画家仲間と、少しづつ画材を買い揃えて
横浜の港の見える丘公園で、進駐軍、すなわちGHQ相手の似顔絵描きを始めた。
それまで敵国だったアメリカ人相手に仕事をするのは抵抗がなかったのだろうか。
父が繰り返しわたしに話してくれたことは
ハリウッド映画が大好きで、しかも無声映画の時代
浅草に住んでいた父は、子供の頃から毎日映画をひとりで見に行っていたそうだ。
映画の中にでてくる「電気洗濯機」「電気掃除機」などの電化製品に子供心にも
「すごい国だ」と感嘆していたのだという。
そんな大国と日本が戦争をしたら
絶対に負ける、と思っていた。
日本はアメリカと決して戦争をしてはいけない。
「なんで反対しなかったの?
戦争反対って言えばよかったじゃない。」
小さい頃、わたしはよく父に訪ねた。
「そういうことを言える時代じゃなかったんだよ。」
「そういうことって何?
そういう時代って何?」
言いたいことをいえない時代、ということが
わたしには理解できなかった。
そして、ことあるごとに
女は一歩下がって男に後ろを歩かなくてはならなかったんだ。
今の時代に生まれて、IRUY(わたしのこと)は幸せなんだよ。
もし戦争に勝っていたら(そんなことはありえないけど)
今でも女性は選挙権もなかったかもしれないんだ。
そうなんだ・・・
絶対嫌だ、男の一歩後ろを下がって歩くだなんて。
小学校の同級生の男の子はほとんどがみな頭が悪いと感じたし
近くのアパートの中庭に猫の死骸があって
どうしたのかとそのアパートの友達に聞いたら
子供たちがよってたかって石を投げて殺したって。
そんなことをするのは男の子だ。
野蛮で幼稚で残酷なのだ。
ああ、いやだいやだ。
男はみんな父のような人ばかりだといいのに。
虫も殺せないほど優しくて、それでいて聡明で、ダンディで
何よりもものすごく絵が上手なのだ。
わたしは完璧な、典型的なファザコンに育ってしまった。
戦後、
横浜の公園で似顔絵描きを始めた父とその仲間たちは
協定のようなものを結んで、何十メートルかおきにイーゼルを立てることにした。
ところが
見本を飾っておくと、それを見比べて「米ちゃん」(父はアメリカ兵のことをそう呼んだ)が来るのだけど、父のところだけ大変な繁盛なのだ。
同じ米ちゃんが何度も何度も来る。
最初は自分の似顔絵を、
次に自分の奥さんの写真を持ってくる。
そのうちハリウッド女優を自分の軍服の背中に描いてくれと持ってくる。
そしてその仲間や、上官まで連れてくる。
そんなこんなで父のところだけ
いつも長蛇の列が出来たのだという。
「似顔絵にはコツがあってね、少しだけ美男子に描いてやるんだ。
その少しの加減が大切なんだよ。」
日本は戦争には負けたけど、アメリカ軍はこの父の作戦に負けた。
やがて、あるときGHQの「えらいさん」が訪れた。
そこの本部に連れて行かれて「お抱え絵師」となり、
かのマッカーサー元帥にもお目通りが許されて
物資の無い時代に何ひとつ不自由することなく
数年はGHQの仕事でお金をためて
新宿に家を建てたのだ。
それももとドイツ人将校が住んでいた土地を没収したものを
安く払い下げしてもらったのだという。
その後に父と母は結婚するのだけど
ふた回りも年の離れたふたりの出会いの話は煩雑になるので
今回は明かさないことにする。
姉もわたしもその家で生まれ
相変わらず父は右腕一本でわたしたちを養い
物心ついたときには、家には女中さんとお弟子さんが住んでいた。
「しいちゃん」というお手伝いさんと
「さとうくん」というお弟子さんだ。
姉もわたしもこのふたりによく面倒を見てもらった。
わたしが小学校低学年のときには
ふたりともいなくなっていた。
「さとうくん」は独立したといっていたし
「しいちゃん」は田舎で縁談が決まってお嫁にいったらしい。
四苦八苦(しくはっく)とは、仏教 における苦の分類。 苦とは、「苦しみ」のことではなく「思うようにならない」ことを意味する。 根本的な苦を生 ・老 ・病 ・死 の四苦とし、 根本的な四つの思うがままにならないことに加え、 の四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦と呼ぶ。
1986年
長く入院をしていた父の二番目の姉が亡くなった。
その白い横顔を見たとき
本当に父にそっくりだと思った。
1987年
こんどは一番上の姉が亡くなった。
わたしは見なかったのだけど、そのとき初めて父が泣くのを見た、と
のちに母が話してくれた。
「みんな土に還ってしまった。」
ぽつりと父が言ったのは今でも覚えている。
それから妙なことを言うようになった。
「あとはあなた方の好きにしてください。」
そうして
父は生きているうちに、新宿の家を
母と姉とわたしの名義にした。
1988年6月1日
父が突然家で倒れて
新宿のK病院に入院した。
見舞いに駆けつけたとき
父はベットに腰をかけていたので、ほっと胸をなでおろした。
しかしそれは肺に水が溜まって横になると苦しいということだったらしい。
足にも水が溜まっているといい、腫れていた。
そこから父はついに自宅に戻ることは無かった。
6月半ばのわたしの誕生日の日に
五年付き合っていたYと別れた。
このときのわたしの精神状態を表現する言葉が思いあたらない。
最愛の父親は入院中だし
Yとは会社でもパートナーでわたしが女房役なので
毎日仕事で顔を合わせなくてはならない。
父はYのことを大変気に入っていて
わたしたちの結婚を望んでいた。
入院中の父に心配をかけてはいけないと思い
そのことは最後まで言えなかった。
父は「わたしの絵や本を全部Yくんに上げて」
と急に言い出して
母とわたしで、
「何言ってんのよ。自分で上げればいいじゃない
早く元気になって、退院してからだっていいよ。」と嗜めた。
Yと別れた初めての金曜日のことをわたしは忘れられない。
金曜日はそのころ「花金(はなきん」といって
みな浮かれて遊びに行く日だ。
金曜日におとなしく自宅にまっすぐ帰る人なんていない。
それに金曜日に残業するひとなんていない。
展示会もおわり、あとは夏まで
アパレルメーカーは比較的暇な時期なのだ。
プレスルームにはわたしを含めて四人の社員がいたが
金曜日は「六時ピン」といって、タイムカードの前に六時を待つ列ができるのだ。
気がつけば、だだっ広い部屋で
わたしだけになっていた。
隣の部屋はYのいる企画室だが、こちらも灯りが消えたのが窓を通して見えた。
いつもなら、Yや仲間たちと食事をしながらお酒を飲んで
青山か西麻布でナイトクラビングを何軒かして
朝帰りするのが正しい金曜日の過ごし方なのに。
家に帰っても母と姉とその一歳になる子だけ
(姉はそのときシングルマザーだった。姉の生き方はわたしには重すぎて
わたしの生き方は姉には軽すぎて、互いに理解しえないでいた。)
父は入院しているし、わたしはその中に入れない。
わたしは好き勝手にやってきてしまったので
たまに帰っても居心地の悪さをその家に感じていた。
「どうしよう・・・」
わたしは「孤独」という言葉を初めて理解した。
しばらくぼうっとしていた。
やがてそろそろ会社を出なくてはならない、と思った。
100人いる会社の最終退館者なんて真っ平ごめんだ。
七時を過ぎていたし、うかうかしていたらそうなってしまう。
机の上を急いで片付けて、バックを持って、ドアを開けようとしたその瞬間
電話がなった。
なにも考えずに反射的に電話に出た。
それがSだった。
運命の一本の電話だ。
昨日の積雪は7センチ
山中湖ではワカサギ釣りが解禁になったり
寒さが厳しい富士五湖地方です。
が
ここは春のような暖かさでした。
今日は河口湖の駅近くにある
とっても可愛いカフェへ。
Sとの出会いはそこから二ヶ月ほど前に遡る。
1988年
いつのもようにその年の四月に行なわれる
「秋冬コレクション」の打ち合わせをYとしていたときだ。
「今回は全て日本人で行きたいんだよね。
いやあ、中国人でも、韓国人でも、
ようするにイエローで行きたいんだけど」
このタイミングでこの話しは実はすごいのだ。
1987年にすべて黒人でメンズのファッションショーを日本で行なったデザイナーなど他にはいないだろう。
それがこんどは「アジア」
これは今考えてもものすごい前世とのつながりがあるのだけど
主旨と離れていくので、それは別の機会に話したいと思う。
いつでもどこでも
わたしはYの思いを具現化する人間だと思っていた。
ファッションデザイナーとしてのYは若くして才能があり、
わたしは彼の世界に心酔するひとりであったからだ。
それはビジネスとプライベート、両方のパートナーとして。
それから連日
毎週毎週、週末にはさまざまな音楽イベントやダンスクラブに行った。
ファッションショーのステージに立つには
切れのよい動きが必須だからだ。
それを探しに行くのだ。
ある西麻布の人気のあるクラブで
Yが突然指を刺し
「アイツ、アイツ・・・良くない?」と言ったのだった。
指を刺した先には、これといって目だつ存在はなかった。
「アイツ、いいよ。オレ、アイツには負けたくないなあ」
穏やかなYには珍しい言葉だった。
「あの白いコートを着ているヤツ」
その視線の先には
背の小さい生意気そうな男がいた。
「そうだね・・・」
そのとき思ったのは
男がかっこいいと思う男と
女がかっこいいと思う男は違うんだな、ということだった。
わたしは鶴太郎に少し似ているな、と思う男に近寄って
名刺を渡し
4月のファッションショーに出てくれないかの依頼をした。
その男
その後わたしが八年も共に過ごすことになる「S」は
そのとき
「出てやってもいいけど・・・」みたいな横柄な態度でいたのだ。
結局ショーに出てくれた彼は
当日のヘアメークの部屋であれこれ支持するわたしを
「うるさい女だ」という印象を持ち
ショーの打ち上げでは髪の長い綺麗な奥さんを連れてきて
そのまま「知り合い」の域を出ないかと思われた。
なによりわたしはその時点ではYと付き合っていたし
それは周知の事実だと思っていた。
しかしこれは本当に不思議なことなのだが
初めてわたしを食事に誘った金曜日
わたしは「フリー」だったのだ。
わたしにとってはその一本の電話は
渡りに船とか
捨てる神あれば拾う神ありとか
何しろ断る理由が一つもなかった。
しかも二人きりというわけではなく
わたしも知っているクラブジャマイカの、オーナーも一緒だという。
「行く行く!」
「何か食いたいものある?」
ぶっきらぼうな彼の言い草に少しクスリとしながらも
「青山のサバティーニ!」と
とんでもないおねだりをしてみた。
「いいよ。」
その夜はサバティーニで場違いな格好をした三人で食事をして
グラッパを浴びるほど飲んで
その後クラブジャマイカに行き
朝まで踊って
最後は西麻布のラ・ボエムでしめをしたのではなかったか。
わたしは父の病気のことをその夜は忘れて
思い切り遊んだ。
父はやがて良くなってまた家に戻ってくるし
あさっては父の日だ。
病院にお見舞いに行ってまたおしゃべりを楽しくするんだ。
そう思っていた。
父の日の日曜日には雑誌の撮影の仕事になってしまった。
代官山のスタジオから電話して
ごめんねを言った。
母もいるので大丈夫と思った。
そこから一週間くらいたって
父の見舞いに行ったとき
おや?と思った。
足のむくみは取れているが
その足が屍のように見えた。
看護婦さんが来たとき
あら?といい、眉間にしわを寄せたのをわたしは見逃さなかった。
母とふたりで病院の屋上にあがっておしゃべりをしたとき
わたしはいきなり不安になって泣きながら
「もしかして、パパ、死んじゃうのかなあ・・・」と言ったら
母は急に怒り出した。
「馬鹿なこと言うんじゃないの!
パパが死ぬわけないでしょう!」
あまりの剣幕にわたしは度肝を抜かれたが
正直にいうと
なんで母にはわからないのだろう。
と、秘かに思ったのだけど
わたしの取り越し苦労だったら良いとも思った。
あの「金曜日」以来
ほぼ毎日のようにSから電話がかかってくるようになった。
むろん、携帯電話などない時代だったので
会社にかかってきた。
すぐにSは、わたしに見せたいものある、といい
代官山のカフェ・ボエムで待ち合わせをした。
彼は、自分が何をしているかを見て欲しいといい
マネキンを作っているのだと言った。
その話しは聞いたことがあるし
それはわたしの会社への売り込みだと思ったりしたが
それにうちの会社は洋服を作っているが
あまり新しいマネキン人形などに興味は無いと思いながら
とりあえず、待ち合わせに行った。
彼の「作品」のカタログを見て
わたしは絶句した。
1987年 テーマはブラック
それはピカソが影響を受けた躍動感溢れるあのアフロの大地を思わせる
アグレッシブなフォルムを持った、しかし限りなく美しい
もはやマネキンとはいえない「アート」の領域に達したものだった。
そして
1988年 テーマはアジア
打って変わったたおやかなイメージ。
アルカイックスマイルのヘレニズムの影響を受けた仏像のような
なんという豊かな表現!
何故?
なんでうちとテーマが一緒なの?
この二人のアーチストが同じ時期に同じ事を考えるのは
単なる偶然なの?
しかも服で表現するには限界のあるこのテーマは
彼の世界だとここまでより本質に迫れるものなのだ。
わたしはこのとき
彼の作品に
魂を鷲づかみにされたような気がした。
六月の終わりごろだったと思う。
母が病院に呼ばれた。
わたしの会社に母から電話があり
話したいことがあるので
今日は早く帰ってきて欲しいという。
いやな予感だ。
母が淡々と話すことには
父には「大腸がん」が肝臓に転移していて
もう高齢のために手術が出きないのだという。
「それで
どうしたら治るの?」
そういうわたしに
母は死刑宣告を行なった。
「あともって・・・
一週間くらいだって」
このとたんに世界が停止した。
「ママ、言ったじゃない!
パパが死ぬわけないって!
もう一度言ってよ。
死ぬわけないって!」
この世界の全てがわたしに刃を向けた。
もう、仕事だって恋愛だってお金だって
何にもいらない!
一分一秒だって父に長く生きてほしい。
そのためならなんだってする・・・
その夜
Sに電話をした。
Sは二年前に父親を失っており
そのときの話を盛んにした。
それは4月で
桜吹雪が舞い続けて・・・
そんな話しだったが
わたしはSが無神経に感じて憤った。
少なくとも「大丈夫、奇跡は起きるよ。」
そういって欲しかったのだ。
それで余計に泣いた。
世界には二種類の人間しかいないのだ。
愛する父親が元気でいる人間と
愛する父親が死ぬかもしれない人間と
今のわたしは
後者だ。
しかし何故か
Sの父親が死んだ日の
その桜吹雪が
ずっとビジョンとして見えていた。
1988年7月8日
父は永眠した。
その日のことは昨日のことのように
思い出すことができる。
父を看取ったのはたったわたし一人で
姉も母も病室にはいろいろなタイミングが重なっていなかったのだけど
そのときに父の体から
なんだか光の柱のようなものが立ち
空に向って行ったのを感じたのだった。
それは単なる錯覚だったのかもしれない。
明治、大正、昭和を生き抜いた
大いなる男の死だった。
あと一年いや、半年生きていれば
時代は平成に突入したのに。
「お通夜」が行なわれるその日の昼間に
会場の打ち合わせやらなんやらで母とわたし達姉妹はバタバタと走り回っていた。
あの「さとうくん」が駆けつけてくれた。
わたしたちが小さかった頃
家に住み込みで働いていた父のお弟子さんだった。
葬儀場の二階から新宿の空を見上げたとき
わたしはいままでに無かった感情に襲われた。
「ああ
これで永遠に一緒にいられるんだ」
入院してからというもの
つねに父のことを気にしていた。
辛くは無いか
苦しくは無いか
寂しくないか
いつ元気になるのだろう
いつ家に帰れるのだろう
そしてほんとうに戻ってくるのだろうか
会社にいて仕事をしていても
夜、打ち合わせをしていても
あるいは羽目をはずして遊んでいても
常にそれが頭の中にあった。
それは肉体というのはどんなに愛していても
離れ離れで過ごさなくてはならないので
夫婦であれ、親子であれ、家族であれ
決してひとつにはなれないのだけど
死んでしまえば魂のレベルで
やっと一緒になれるのだ
そんな感じがしたのだった。
まだシャーリーマクレーンにも
バシャールにも
出会っていなかったけど
わたしにはそれが真実に思えた。
そして心の底から
不思議なのだが
ほっとした。
父は生前、愛馬「流れ星」の話を良くしてくれた。
生き物の中で、犬や猫をとても可愛がっていたのに
馬が一番好きだと言っていた。
「流れ星」は鼻筋にすーっと白いまるで流れ星みたいな筋があってね・・・
馬は利口なんだ。
馬はひとの気持がわかるんだ。
戦争が終わったときに
流れ星は天皇陛下にお返ししたのだといっていた。
あれだけしたたかに生きたように思えたけど
ときどき父は明治の男になった。
わたしは父が死んでから
流れ星に乗って空を駆けているんだと思い
なんどか空を見上げた。
かといって
それでもことあるごとにわたしは
父を思い出してよく泣いた。
なにもかも全ての事柄が
父に結びついて
そのあと10年くらいは思い出してはよく泣いていた。
これほどの哀しみを乗り越えることなんて出きないだろうと思ったが
時間というものは
全てを解決してくれることも学んだのである。
ひとつだけ
大きく変わったことがある。
それは自分が死ぬことが怖くなくなったことだ。
父が旅立ったとき
そこには大好きだった姉さんたちや
先に逝った両親やおじいちゃんたちが迎えてくれたのだろう。
そして愛馬、流れ星とともに空を駆けて行ったのだろう。
わたしは相変わらず、愛するものの死に直面すると
(それは主に動物たちであるのだけど)
冷静ではいられないし、やはりもう一度会いたくて泣き明かしてしまう。
それはちっとも変わらない。
しかし、わたしが死ぬときには
あの、愛おしいもの達にもう一度会うことができる。
先にひかりの大元に還ったものたちと
わたしもまたひとつに解け合うことができるのだ。
だから
永遠なんてない、と人はいうけれど
わたしは永遠の愛を見つけたのだった。
1月23日の夕暮れの富士
今日は一二三の日
愛でたし。
最近の夕暮れ富士は
黄金色を通り越して、茜色だ。
不思議なことがたくさんつづく。
犬の散歩中に
いきなり昔の話を書かなくては、と思い立ったのは
今月の9日。
そして「ココロの旅」をつづり始めた。
時を同じくして、か
あるいはその前か
わたしが読者登録している「ハナリンのみちのくロハスライフ」さんも
「わたしの神秘体験」をシリーズでいきなり連載を始められた。
http://ameblo.jp/ohanakeiko/entry-11750501674.html
そして
すごく久し振りにコメントをくださった
「chloe」さんも
ブログを再会するとの年初のご挨拶で
「読み物風になると思います」と
この記事は
わたしが「ココロの旅」を書き始める五日も前の記事だ。
何故、みな
語り始めた?
同時に?
さらにさらに
「地球防衛軍さん」
すでに「アナスタシア」で、わたしはすごいシンクロを覚えたが
それは記事にはせず。
そうしたら
今日の「生老病死」でまたしてもシンクロ!!!!
(地球防衛軍さんのブログ)
http://ameblo.jp/chikyuuboueigun/entry-11756039263.html
(わたしの「ココロの旅 愛別離苦」の記事)
http://ameblo.jp/mizunotunagari3776/entry-11754944678.html
いったいどうなっているのでしょう?
さらに読者のMさんから、「目黒のアパレルにわたしもいました」
とのメッセージあり。
さらに読者のM君から
「僕の父親も戦争に行ったとき・・・」とのシンクロのメッセージあり。
どうも変だ。
なにか不思議だ。
何故みんな同じ事を同時に考えるのだろうか?
これも共時性(シンクロニシティ)?
一二三の日に思うこと。
1988年に父が死んでからの話。
その夏はどうして過ごしたのか覚えていない。
いや
今思い出した
モロッコへ行ったのだ。
会社の皆は父を失ったわたしを腫れ物をさわるように扱った。
5月に別れた恋人であったYもそうであった。
でも会社でのパートナーの関係は変わらなかった。
確か、パリにYとともに出張にいって
そこまでが仕事でその後はプライベート。
互いに好きなところへ行こうということになって
それからわたしはモロッコへ
Yはバルセロナに行ったのだった。
帰りはパリに帰ってきて
一緒に東京に帰った。
それでSはどうしていたかというと
わたしとSが付き合うには一つの大きな問題があった。
それはSが妻帯者であるということだった。
「いや、アイツとはもうとっくに終わっているんだ」
そんな言葉に騙されるようなわたしではない。
そんなのは常套句に決まっているし
わたしも若気のいたりで一度結婚と離婚をしており
そのときに相手を傷つけてしまったので
もうだれも傷つけたくなかったのだ。
ただ生きている、それだけで
たくさんの人を傷つけていたのに。
東京に戻ってきたわたしをSは待ち構えていた。
青山のアクセサリーデザイナーのところで
わたしの指輪をオーダーしていて
それが出来上がったのだという。
わたしは悪い気がしなかった。
わたしは常に会社の自分のデスクの下に
Sの作品のカタログを忍ばせて
後輩がいなくなったのを見計らって
カタログを出しては
「これを作ったひとが、わたしのことを好き・・・」
と
呪文のように唱えていたからだ。
でも
彼は妻帯者
それも呪文のようにわたしのまわりをグルグルと回った。
それはただ一点
とても気に入らないことだった。
「絶対遊び相手になんかなるものか」
指輪は嬉しく頂戴した。
それはわたしのイニシャルをデザインした
なかなか美しいものだった。
それに、最初の結婚以来
初めて指輪などプレゼントしてもらったのだから。
それから数週間かどのくらいか過ぎたころ
わたしは決心をした。
やはりこれは良くない。
きちんとけじめをつけなくてはならない。
それで
Sといつものように誘われて夕飯を食べたとき
話しをした。
わたしは奥さんのいるひととは付き合わないの。
Sは
珍しく神妙に
「わかった」
と言った。
それからいつものようにわたしを自宅まで送ってくれずに
わたしをTAXYに乗せて
さよならをした。
広尾から駒沢通りを通り
明治通りの灯りが通り過ぎていく。
わたしはTAXYの中で泣いた。
(マザーテレサの言葉)
思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから
同じことをヒンドゥーの教えも言っています。
心が変われば態度も変わる
態度が変われば行動も変わる
行動が変われば習慣が変わる
習慣が変われば人格が変わる
人格が変われば運命が変わる
運命が変われば人生が変わる
「男は決して大人になることはない。
大人になれるのは
女だけだ。」
これはのちに山中湖でお会いできた「コエン・エルカ」さんが
その著書「生き物として忘れてはいけないこと」の中で書いていた衝撃の一言だ。
http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeBookPhoto/eruka.html
「いつから大人になるの?」
「どうしたら強くなれますか?」
「どうして学校に行かなくちゃならないの?」
「いじめをなくす方法はありますか?」
「なぜ働くの?」
「植物も痛みを感じるの?」
「ライオンはどうして肉食なの?」
「どうして年をとるの? お年よりは大切にしなければならないの?」
「すぐに病気を治す方法はありますか?」
「どうして男と女がいるの?」
「外国の人と言葉が違うのはどうして?」
「なんで戦争はなくならないの?」
「どうして生き物は死ぬの?」
「自殺はいけないことなの?」
「死んだらどうなるの?」
「どうして人を殺してはいけないの?」
希代のストーリーテラーである、呼衍・恵瑠賀(コエン・エルカ 別名タシナ・ワンブリ、イレーヌ)さん。中央アジアの騎馬民族の家に生まれ、アメリカ・インディアンの中で馬たちと一緒に育ち、若いときに縁あって日本にやってきた。今も野生と美しい物語を生きるひと。前回2009年1月にほびっと村にいらした時の物語は、仏陀の前世物語『六牙象王』。今回は法隆寺にある玉虫厨子(たまむしのずし)の側面に描かれているという、『捨身飼虎図』(しゃしんしこず)が題材だという。象から虎へ、仏陀の生まれ変わりのさまざまな物語はどんな変容をとげて、私たちの胸に響くのだろう。
中央アジアの騎馬民族の家に生まれ
ネイティブアメリカンとして生きた彼女がそののちに
狼の群れと暮らし
そののち、日本に来て
現在は秩父の山奥で、たくさんの野生動物や犬や猫たちと暮らしている。
とくに疥癬病にかかったキツネやタヌキなどを治療して
自然に帰す活動をされているらしい。
その敬愛する方の話しもたくさんしたいのだが
また機会があれば書くとして
今回は1988年の「男は決して大人になれない」の話をしたいと思う。
この話しを書くことは、またたくさんの誤解を産むかもしれないし
ひとを傷つけて生きてきたわたしという人間に対して
がっかりされることもあるかもしれない。
それを承知で、書いていこうと思う。
前回までの話
「わたしは奥さんのいる人とはつきあわないの。」
そういってSとお別れしてから一週間、
電話は鳴らなかった。
やはりなんだかんだといっても、男はそんなもんだ。
わたしは父を失い、五年付き合ってきたYを失い
ついでにSも失ったのだ。
三人の男たちはわたしの前で
扇風機の羽のようにぐるぐると虚しく回っていた。
みんな嘘ばかりで、誰もわたしのそばにいてくれることはなかった。
みんな、平気でわたしをひとりぼっちにするのだ。
やはり男なんて信じられない。
だいたい、信じるほうが間違っているのだ。
いつものように、会社の退社時間となり
まだ残暑がきびしい季節だっただろうか。
このころはだいぶ色々なことが落ち着いてきた。
それで
またしても、帰り真際に電話が鳴った。
またSだった。一週間ぶりの電話だ。
話しがあるという。
そのころお気に入りだった西麻布のメキシコ料理屋で待ち合わせをした。
ここのマルガリータは絶品だったので。
「この間、久し振りに○エと食事にいったんだ。」
わたしが「奥さん」というと、Sは怒った。
○エという名前があるんだ!
それでわたしは○エさん、と呼ぶようにした。
確かにそうだ。
一度わたしたちのショーの打ち上げで紹介されているのだから。
「そう。良かったね。」
それ以上、わたしはなんといえば良いのか。
「すごくいい子なんだよ
すごくいい子なんだ。」
「・・・・・・」
「全部わかってもらったんだ。
それで
家を出てくれることになったんだ。」
「でもそれには時間が欲しいっていうし
新しい住むところを探してやることになったんだ」
「だから、もう少し待って欲しい。」
そうして
Sは繰り返し、繰り返し
わたしのせいでは無いのだ、と言った。
自分たち夫婦はすでに破綻しており
わたしが現れなくても、いずれそうなったのだと。
わたしはSの決断に度肝を抜かれたが
わたしのせいではないという彼の弁明は
わたしの心を楽にするには充分だった。
それこそがわたしが落ちた罠。
○エさんをはじめとして
その周りを巻き込んで
わたしはけっして抜けることのない、深い迷路に迷い込んでしまったのだ。
今思えば
男は永遠の子供であって
その人生という遊びには
決して本気でつきあっていてはならなかったのだ。
気がついてみたらわたしは
誹謗と中傷のただ中にいた。