1988年に父が死んでからの話。
その夏はどうして過ごしたのか覚えていない。
いや
今思い出した
モロッコへ行ったのだ。
会社の皆は父を失ったわたしを腫れ物をさわるように扱った。
5月に別れた恋人であったYもそうであった。
でも会社でのパートナーの関係は変わらなかった。
確か、パリにYとともに出張にいって
そこまでが仕事でその後はプライベート。
互いに好きなところへ行こうということになって
それからわたしはモロッコへ
Yはバルセロナに行ったのだった。
帰りはパリに帰ってきて
一緒に東京に帰った。
それでSはどうしていたかというと
わたしとSが付き合うには一つの大きな問題があった。
それはSが妻帯者であるということだった。
「いや、アイツとはもうとっくに終わっているんだ」
そんな言葉に騙されるようなわたしではない。
そんなのは常套句に決まっているし
わたしも若気のいたりで一度結婚と離婚をしており
そのときに相手を傷つけてしまったので
もうだれも傷つけたくなかったのだ。
ただ生きている、それだけで
たくさんの人を傷つけていたのに。
東京に戻ってきたわたしをSは待ち構えていた。
青山のアクセサリーデザイナーのところで
わたしの指輪をオーダーしていて
それが出来上がったのだという。
わたしは悪い気がしなかった。
わたしは常に会社の自分のデスクの下に
Sの作品のカタログを忍ばせて
後輩がいなくなったのを見計らって
カタログを出しては
「これを作ったひとが、わたしのことを好き・・・」
と
呪文のように唱えていたからだ。
でも
彼は妻帯者
それも呪文のようにわたしのまわりをグルグルと回った。
それはただ一点
とても気に入らないことだった。
「絶対遊び相手になんかなるものか」
指輪は嬉しく頂戴した。
それはわたしのイニシャルをデザインした
なかなか美しいものだった。
それに、最初の結婚以来
初めて指輪などプレゼントしてもらったのだから。
それから数週間かどのくらいか過ぎたころ
わたしは決心をした。
やはりこれは良くない。
きちんとけじめをつけなくてはならない。
それで
Sといつものように誘われて夕飯を食べたとき
話しをした。
わたしは奥さんのいるひととは付き合わないの。
Sは
珍しく神妙に
「わかった」
と言った。
それからいつものようにわたしを自宅まで送ってくれずに
わたしをTAXYに乗せて
さよならをした。
広尾から駒沢通りを通り
明治通りの灯りが通り過ぎていく。
わたしはTAXYの中で泣いた。