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Channel: トヨタマヒメ富士日記
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ココロの旅 「偶然と必然」

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Sとの出会いはそこから二ヶ月ほど前に遡る。

1988年

いつのもようにその年の四月に行なわれる

「秋冬コレクション」の打ち合わせをYとしていたときだ。




「今回は全て日本人で行きたいんだよね。

いやあ、中国人でも、韓国人でも、

ようするにイエローで行きたいんだけど」




このタイミングでこの話しは実はすごいのだ。

1987年にすべて黒人でメンズのファッションショーを日本で行なったデザイナーなど他にはいないだろう。

それがこんどは「アジア」

これは今考えてもものすごい前世とのつながりがあるのだけど

主旨と離れていくので、それは別の機会に話したいと思う。




いつでもどこでも

わたしはYの思いを具現化する人間だと思っていた。

ファッションデザイナーとしてのYは若くして才能があり、

わたしは彼の世界に心酔するひとりであったからだ。

それはビジネスとプライベート、両方のパートナーとして。




それから連日

毎週毎週、週末にはさまざまな音楽イベントやダンスクラブに行った。

ファッションショーのステージに立つには

切れのよい動きが必須だからだ。

それを探しに行くのだ。




ある西麻布の人気のあるクラブで

Yが突然指を刺し

「アイツ、アイツ・・・良くない?」と言ったのだった。

指を刺した先には、これといって目だつ存在はなかった。

「アイツ、いいよ。オレ、アイツには負けたくないなあ」

穏やかなYには珍しい言葉だった。




「あの白いコートを着ているヤツ」




その視線の先には

背の小さい生意気そうな男がいた。




「そうだね・・・」

そのとき思ったのは

男がかっこいいと思う男と

女がかっこいいと思う男は違うんだな、ということだった。




わたしは鶴太郎に少し似ているな、と思う男に近寄って

名刺を渡し

4月のファッションショーに出てくれないかの依頼をした。




その男

その後わたしが八年も共に過ごすことになる「S」は

そのとき

「出てやってもいいけど・・・」みたいな横柄な態度でいたのだ。




結局ショーに出てくれた彼は

当日のヘアメークの部屋であれこれ支持するわたしを

「うるさい女だ」という印象を持ち

ショーの打ち上げでは髪の長い綺麗な奥さんを連れてきて

そのまま「知り合い」の域を出ないかと思われた。

なによりわたしはその時点ではYと付き合っていたし

それは周知の事実だと思っていた。




しかしこれは本当に不思議なことなのだが

初めてわたしを食事に誘った金曜日

わたしは「フリー」だったのだ。




わたしにとってはその一本の電話は

渡りに船とか

捨てる神あれば拾う神ありとか

何しろ断る理由が一つもなかった。

しかも二人きりというわけではなく

わたしも知っているクラブジャマイカの、オーナーも一緒だという。




「行く行く!」

「何か食いたいものある?」

ぶっきらぼうな彼の言い草に少しクスリとしながらも

「青山のサバティーニ!」と

とんでもないおねだりをしてみた。

「いいよ。」




その夜はサバティーニで場違いな格好をした三人で食事をして

グラッパを浴びるほど飲んで

その後クラブジャマイカに行き

朝まで踊って

最後は西麻布のラ・ボエムでしめをしたのではなかったか。




わたしは父の病気のことをその夜は忘れて

思い切り遊んだ。

父はやがて良くなってまた家に戻ってくるし

あさっては父の日だ。

病院にお見舞いに行ってまたおしゃべりを楽しくするんだ。

そう思っていた。




父の日の日曜日には雑誌の撮影の仕事になってしまった。

代官山のスタジオから電話して

ごめんねを言った。

母もいるので大丈夫と思った。




そこから一週間くらいたって

父の見舞いに行ったとき

おや?と思った。

足のむくみは取れているが

その足が屍のように見えた。

看護婦さんが来たとき

あら?といい、眉間にしわを寄せたのをわたしは見逃さなかった。




母とふたりで病院の屋上にあがっておしゃべりをしたとき

わたしはいきなり不安になって泣きながら

「もしかして、パパ、死んじゃうのかなあ・・・」と言ったら

母は急に怒り出した。

「馬鹿なこと言うんじゃないの!

パパが死ぬわけないでしょう!」

あまりの剣幕にわたしは度肝を抜かれたが

正直にいうと

なんで母にはわからないのだろう。

と、秘かに思ったのだけど

わたしの取り越し苦労だったら良いとも思った。




あの「金曜日」以来

ほぼ毎日のようにSから電話がかかってくるようになった。

むろん、携帯電話などない時代だったので

会社にかかってきた。




すぐにSは、わたしに見せたいものある、といい

代官山のカフェ・ボエムで待ち合わせをした。

彼は、自分が何をしているかを見て欲しいといい

マネキンを作っているのだと言った。

その話しは聞いたことがあるし

それはわたしの会社への売り込みだと思ったりしたが

それにうちの会社は洋服を作っているが

あまり新しいマネキン人形などに興味は無いと思いながら

とりあえず、待ち合わせに行った。




彼の「作品」のカタログを見て

わたしは絶句した。




1987年 テーマはブラック

それはピカソが影響を受けた躍動感溢れるあのアフロの大地を思わせる

アグレッシブなフォルムを持った、しかし限りなく美しい

もはやマネキンとはいえない「アート」の領域に達したものだった。

そして

1988年 テーマはアジア

打って変わったたおやかなイメージ。

アルカイックスマイルのヘレニズムの影響を受けた仏像のような

なんという豊かな表現!




何故?

なんでうちとテーマが一緒なの?

この二人のアーチストが同じ時期に同じ事を考えるのは

単なる偶然なの?

しかも服で表現するには限界のあるこのテーマは

彼の世界だとここまでより本質に迫れるものなのだ。




わたしはこのとき

彼の作品に

魂を鷲づかみにされたような気がした。


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