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Channel: トヨタマヒメ富士日記
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ココロの旅 プロローグ <リオ・デジャネイロ>

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午年がやってきた。

わたしにとって

午の年は特別な年となる。


少しづつになるかもしれないけど

書いていこうと思う。


何故、今

わたしがここにいるのか


そうして

わたしはどこへ行くのか?


2014年という区切りの年に

少々自分自身の人生を振り返ることによって

この先のベクトルが見えてくるのではないか?


それはどうなっていくのかはわかないのだが

とりあえず

1990年の午の年から書いてみようと思う。



1990年元旦

日本時間で零時

遥か下界で花火が炸裂するのを見た。



離陸したばかりのジャンボジェット機の中で

浦安のディズニーランドだろうか?

下ではお祭り騒ぎなのだ。



すでにわたしは機上の人だった。



これから、ブラジルへ行くのだ。

直行便が取れなかったので

ロサンジェルスを経由して

日付変更線を越えて.



正月を東京で過ごすだなんて、真っ平ごめんだ。

まったく東京の正月ほどつまらないものはない。

田舎のある友人は、カウントダウンパーティのあと

こぞって実家に帰ってしまうし

母と姉はハワイに行ってしまう。

それでも飛行機が嫌いな父とふたりで

新宿の実家でふたりで過ごすのも悪くは無かった。

1988年の7月8日に

父が他界するまでは。



その父が生きているときに

最後の最後に出あったのは

「S」だった。

今、わたしの隣の席にいる。



わたしは彼が最後にわたしに父がプレゼントしてくれた出会いのように感じていた。

わたしが父の亡き後

淋しくないようにと。


まったくあのころ、Sがいなかったら

わたしは「父の不在」をどのように受け止めていたのか

想像するにおそろしい。


目に見えない存在は確かにいて

人生のここぞというときに

きっとこのように働いてくださるのだろう。





このとき

わたしとSは互いに独身の男女、そして同居人として

今、同じブラジル行きの便に乗っている。

そして、ともに年末年始を海外で過ごすことが

父が亡くなって以来、わたしたちの習慣となった。



Sの隣に日系人の初老の男が座っていた。

日本に出稼ぎに来て

サンパウロに帰るのだという。

わたしたちはブラジルの話が聞きたくでうずうずしていた。

しかし彼は

「腕時計、はめていたら駄目ですよ。手首から切られちゃいますよ」

「世界で一番泥棒が多いところなんですから」

そんなことを話しては

わたしたちの期待に膨らむ新しい土地への期待を蝕んでいく。

もっとも、このような忠告は慣れっこになっている。

中南米やアフリカ諸国といった国々に旅をするときは

「気をつけろ、気をつけろ」

口酸っぱく親切心から行ってくれる輩が必ずいるのだ。



「日本の食事は口に合わなくて、参った。」

そう彼が言ったので、

「そうですか?何が合わなかったんですか?」と尋ねたら

「何もかもが甘い」と、顔を曇らせて言った。



それはかの地の行ってレストランで食事をしたときに

全てが塩辛かったので、後に意味が理解できたのだが。



日付変更線を越えて

リオデジャネイロの空港に着いたのは

まだ1989年だった。



空港の近くの安ホテルを探している間に

1990年になった。



町は大騒ぎだ。

サンバのパレードが出るのだという。

荷物の整理もそこそこに

町に行ってみた。



カーニバルは二月に行なわれるが

ハッピーニューイヤーのカルナバルは少々仲間内の大騒ぎな感じがした。

喧騒をさけて

浜に二人で行ってみた。

そうしたら、

そこでは、幻想的な祀りがひっそりと行なわれていた。



マクンバ???



30人くらいの黒人の男女がいて

魔方陣のようなものを組み

蝋燭の明かりだけで

ドラムを叩いている。


そのドラムの音が

わたしの尾てい骨に響いてくるのだった。



その円陣の中の黒い女性が

明らかにトランス状態となって、踊り始める。



太鼓の音だけが響く。



わたしは後ろでひとり踊った。



「これだ、このリディム」

一人で思いながら。


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