今日は
そうなの〜〜???
2月23日
“富士山の日”!
ボヤンとしてるけど
久しぶりの
“紅富士”が拝めました。
富士山の雪…
今年は確かに、
少ないのです。
さてさて、
221
222
223
と
たくさんの事柄が押し寄せて、
わたしも少々混乱していますが、
ご了承くださいませ。
ここからは、
223の
富士山の日
とは、関係のない
221のプチトリップのお話をさせて頂きますね。
おととい(0221)の話の続きです。
『地震峠?
なんじゃ?それ???』
そう思いながらも、
なんだか、そこへ行ってみたくなりました。
友人は、
『ねえ、アレアレ!
ゼロ磁場の『分杭峠』みたいに
アヤシイ所じゃないの?』
と
言ったのですが、
わたしは、なんだか
そことは異なるような感じがしたのです。
『地震峠』
行きまーす!
鳥屋。
馬石、
串川、
などなどの
キーワード
目白押し!
で…
『地震峠』
看板が、ありました。
1923年の
関東大震災
由来でありました。
『写真上段は馬石橋バス停方向を振り返ってみています。前方の道路擁壁が終了し、道路のカーブが終わって直線になった付近が馬石橋です。手前、道路擁壁の上に地震峠の案内板があります。
当時地震とともに写真右側の斜面から崩壊土砂が押し寄せ、人家が埋没し、串川が埋まりました。崩壊土砂を切り通して現在の県道が通過しており、串川は崩壊土砂を避けるように県道を横断して写真左側に大きく迂回しています。』
ここには、そんな悲しい歴史があったのですね。
1923年。
『・・・当津久井郡内では、死者三十三名、負傷者十六名、全壊棟数百二十戸、半壊棟数四百二戸となっているが、この内ここ馬石では、死者十六名、埋没棟数九戸で、死体が確認されたのは八人のみ、ある家では六人家族全員が埋没死したのである。当時の串川は現在の県道よりもずっと南側(編集者注:写真の右側で現在は山地側の斜面になっている)を流れていたが、山津波のために串川がせき止められ、上流五百メートル位まで湖のようになってしまったという。・・・
昭和六十一年三月 津久井町教育委員会
(案内板の記載から抜粋)
わたしは
突然、思い出しました。
この辺りは
山梨県の『道志村』とつながる
“地震の巣”と呼ばれていたことを。
こんな記事を
かつて、書いていました。
そうかあ…。
わたしはこの日
なぜ?また
1923年のいわゆる
『関東大震災』につながる場所に行ってしまったのか、
ぼんやり考えていました。
そうして
調べてみたら…
1923年は
『亥の年』だったの!!!
そうなの〜〜???
そうして、
ずっと
気になっていたのが
『1923年の関東は、三浦半島が震源地なのに、なんで山梨県でこんなに被害があったの???』
という、単純な疑問でした。
それが、氷解したのは…
1923年の アノ地震は、
10分続いていたように言われて来たけど、
実は
『三つ子の地震だった…』
という研究成果に行き当たったことでした。
『1993年の研究(岐阜測候所から地震の波形データが発見された)によって、関東大震災では11時58分32秒に発生したM7.9の本震から3分後の12時01分にM7.2、5分後の12時03分にM7.3という巨大な揺れが三度発生した「三つ子地震」であることが最新の研究で判明した。つまり、本震の震央が神奈川県西部、続いて東京湾北部、山梨県東部が三つの地震の震源となった。』
そうなんだ!!!
わかりにくい?
では、
もう一度。
関東大震災では
①11時58分32秒に発生したM7.9の本震から
②3分後の12時01分にM7.2、
③5分後の12時03分にM7.3という
巨大な揺れが三度発生した「三つ子地震」であることが最新の研究で判明した。
その、
最後の震源地が
『道志村』だったのです!
このことを調べていたときに、
北海道で…
今日になって、この地震で被害に遭われた方は
数名いらっしゃるとの報道がなされました。
それにしても
氷点下の中での交通混乱にて
被災地の方々のご無事を
心よりお祈りさせて頂きます。
大難を、小難へ、
どちらさまも
平安の中に
新しい時代を迎えることが出来ますように。
223
富士山の日にて
心より、お祈りをさせて頂きます。