青森の 『三内丸山遺跡』
今回のみちのくの旅でも、ハイライトとも言える
5500年前から4000年前まで
縄文時代の人々が定住していた
特別史跡の
ガイドツアーのお話です。
ガイドの“星さん”が
北盛土は
最初に連れて行ってくれたのが
『南盛土』でした。
あの!
わたしがここを調べ始めて
驚愕した、
糸魚川の翡翠の大珠が出た場所なのです。
糸魚川まで交易していたことも驚きですが
星さんの説明にまたまた、びっくり!
それに穴を開けるのに、どのくらい時間がかかったのか
また、そのような技術者がいたのか、
なにもかも謎だらけだというんです。
タイムカプセルのように保存しています。
人工的な建物は、これだったのです。
発掘途中のさまざまな遺跡が
トレンチの中から顔を覗かせています。
そのころの住居跡周辺に
さまざまな住居の復元が点在しています。
白神山地もそうだったけど
ガイドさんの説明があると無しでは大違いなのだわ。
わたしもネイチャーガイドとしての役割に
気持ちを新たにした旅になりました。
三つ。
これは、木組みの上に土を盛ったもの。
以前は中に入れたみたい。
あとは、高床式と、茅を被せたもの。
土なのか、茅なのか、高床式なのか?
学者先生の説がそれぞれあるので
とりあえず三種類作りました、と。
わたしは、土だったかなあ、と思いました。
この辺りは、いくら縄文時代でも
冬は寒いはずで、
土だと保温性に優れているのでは?と。
そこから
海まで続く道に
大人の墓が続いています。
だけど、みな平等の大きさだそうです。
魚を取りに行く日常の道路に
左右に足を道に向けて埋葬されている???
骨は完全に分解されているが(この辺りは火山灰の酸性土なので)頭側が高くなっているのでそれがわかるのだ、と。
縄文の人々は、ムラの中心や、このような公道に死んだ人々を埋葬するので
あの世とこの世の壁が薄い、
または、死んだ身内がいつまでもムラを守ってくれるのだと考えていたようです。
この大きな高床式の建物は
宗教施設の可能性もある、と。
家族などの小単位の人々が暮らす
小さな家が点在しているのが見えます。
『北の谷』
湿地帯で、奥には池のようになっています。
水を全て抜いて発掘したら
当時のゴミ捨て場だったそうで、
何を食べていたか、や
当時の暮らしぶりがわかったそうな。
シカやイノシシなどの大型哺乳類を食べていたイメージがありますが、
海に囲まれた三内丸山の縄文人たちは、おもに魚や貝を食べていた。主食はクリやドングリだそうで、クリの畑を持っていた。
動物は、ウサギやムササビなどの小動物をたまに食べていたそうです。
さて、
このまま、保存。
土器のカケラなどみえるのだわ。
板状土偶が多数発見されているそうてす。
『土偶はすべて女性を象ったものです。』
と
ガイドの星さん。
すべて、乳房があり、
無事の出産を祈ったのでは、と。
他にも、お父さんが明日海に出るから、無事に魚をたくさんとって帰れますように、とか
日常的な祈りだったのでは、と言います。
ここの縄文の人々は
4000年前に突如消えてしまいますが、
そのあとに列島にやってきた人々は
全く異なる弥生式土器を作り
埴輪(はにわ)を作りますが、それらは男性で、しかも戦士。馬の埴輪も出現し、馬具を備えている。
弥生時代というと優しい感じがしますが、
祈りの質は、戦争に勝つ、奪うといったものに変わってきます、と星さん。
弥生時代になって、人は初めて武器を持つ。
殺し、殺される
死んだものは呪うかもしれないないので
なるべく住居の遠くに埋める。
あの世とこの世は隔たり
あの世は穢れの世界となる。
縄文の人々にとって
“火”は神そのものだったけど
弥生時代になってから
イザナミがカグツチを産んでホトを焼かれ
黄泉の国へ行ってしまう伝説などが生まれたのだろうな。
なぜ、いま
縄文なの?
きっと、わたしたちは
この平和な時空間に
ワープしてみたいんだ。
それを
いま、ここに
具現化したいんだわ。
北盛土のプレハブ小屋を出たときに
正面に、
あの!