3月18日のお話の
ラストです。
富士川河口から、
こんどは北上します。
あくまでも、風まかせの旅…。
富士川は
想像していた以上に
蛇行していて
納得できる。
52号線を行くと
何もない。
富士川といえば
わたしたち、ジオ(地学)の人たちの認識は
『富士川河口断層』!
フォッサマグナの西端であり
糸魚川ー静岡構造線の真上なのだ。
糸魚川ー静岡構造線とは
糸魚川ー富士川をつなぐ、
日本列島の 割れ目でもある。
この日は、52号線を
北上することになったけど、
そのまま行けば
身延を経て
甲府につながって行く。
富士五湖地方へは
本栖湖に抜けて帰ることになる。
かなりな大回りだ。
友人がそのまま、本栖湖へ抜けるとは思わなかったし
わたしも、日が暮れる前に帰宅したい。
富士川の蛇行とともにそのまま行けば
南部町という山梨県側に入るのだが、
富士川をそのまま遡らずに
469号線を富士宮方面に行く。
すると、
なあに?
なあに?
『平維盛の墓』って???
こんなところに?
平家の墓???
妙に気になったけど
わたしは、歴史に疎くて、わからないし
車は469号線をどんどん東に走って行く。
すると
山側に、看板が!!!
『富士川の戦いに破れた平維盛が 柚野山延命寺より、稲子への道すがら、ついていった桜の杖が根付いた桜で、このような峠の名前になったと伝わっています。』
なんとなんと
『富士川の戦い』とは
源平合戦の中でも
源頼朝が勝利する、礎となった重要な戦いであったみたい。
というよりは
わたしはなんにも知らないのだ。
何も知らないわたしが
こうして、動けば動くほど
なんだか重要なポイントを通過することになる。
こちらより
画像をお借りすると
すべて、この地図に収まっている!
さらには
平維盛さんを調べたら
平清盛の孫!で
光源氏の再来と言われたほどの美男子で
富士川の戦い、迦羅栗峠の戦いに敗れた後、
熊野の那智で入水自殺を28歳の若さで行ったと
『平家物語』に記されているそうな。
ん???
では、なぜ
ここに平維盛さんのお墓があるの?
それは、さもありなんの
『平家の落人伝説』なのだけど
こちらを読んだら
熊野の入水自殺の方が彼を美化した伝説に思えてくる。
この 『伝説マップ』をみて
ビックリ‼️
東海道を東からやってきて
富士川に到達するは源氏(甲斐源氏)の足取りで、
富士川に沿って北上し
さらに496号線を富士宮に戻るルートは
逃げ延びた平氏の足取りだ。
わたしたちは、なんのプランもなく
この日はそのように走ったの。
いやいや
この日だけではなくて
今年に入ってからというもの
この
東西軸。
これは
東海道と思っていたけど
源平合戦の対立軸でもあったのだなあ。
さらにここには
富士を巡る南北軸があり
まさにわたしは
わたしたちは
南北のエナジーつなぎの理由で
連日、回らされて、いるのではないかしら?
それは、
単なる妄想だろうか???
469号線のウネウネとした山道を走ると
いきなり、富士宮の市街地が見渡せる展望に出くわした。
朝霧に抜けようとしたら
一本間違えてしまって
笑っちゃうのだけど…
富士宮浅間大社の鳥居の前に出てしまった。
鳥居の前から
心の中でお参りして
あとは
富士山の2合目を通る
スカイラインにて
山中湖方面に戻ることにする。
スカイラインは、霧の中だった。
須走まで降りてきたら
やっと
太陽と、富士山が見えた。
ディープな一日でした。
3月18日
陰暦 如月二日。
そうか!
二月二日
二二
フジの日でもあったのね。