『皇宮山蚶満寺(かんまんじ)』
本尊は釈迦牟尼仏。
仁寿3年(853年)に天台座主円仁(慈覚大師)の開創と伝えられる。蚶方(きさかた)の美景と神功皇后の伝説によりこの地を占い、皇后山干満珠寺と号したという。
神功皇后の伝説とは、神功皇后が三韓征伐の帰路、大シケに遭って象潟沖合に漂着し、小浜宿禰が引き船で鰐淵の入江に導き入れたが、そのとき皇后は臨月近かったので清浄の地に移したところ、無事に皇子(のちの応神天皇)を産み終えたという『蚶満寺縁起』所載の伝承。その後、象潟で半年を過ごし、翌年の4月鰐淵から出帆し、筑紫の香椎宮に向かったという。蚶満珠寺の名は、干珠・満珠を皇后が持っていたことに由来するとされる。
『蚶満寺』は
干満(かんまん)
すなわち
干珠・満珠から由来する。
この記述をよんだとき
驚いた。
干珠・満珠は
塩干玉・塩満玉ともいい、
龍宮の豊玉姫命が
天孫族の皇子 彦火火出見に
差し上げたものでは無いのかしら?
だけど、ここでは
神功皇后…。
そもそも、神功皇后ってどんな方だっけ。
そして、なぜ
干珠・満珠を持って
この出羽國に来たんだろう。
そもそも
豊玉姫の
塩満玉、塩干玉とは?
どういうものなの?
画像検索してみると、
豊玉姫命が持っている玉は
ひとつだけの画像が多く出て来て
ふたつの玉を持つものは発見できなかった。
白い玉、
なぜか後ろに日の出の赤い玉。
調べてみると、
神功皇后は、竹内宿禰を通じて
『安曇磯良』からそのふたつの玉を頂いたらしい。
安曇磯良 あずみの-いそら
貝や藻や虫がとりついた容貌をしている。中世以降の話に登場し,「太平記」によれば,神功(じんぐう)皇后が三韓に出兵する際,竜宮に使いとしていき潮の干満を左右する干珠(かんじゅ),満珠(まんじゅ)の宝をもちかえったという。海人(あま)を統率した安曇氏の祖とされる。阿度部(あとべの)磯良ともいう。
豊玉姫は、安曇族の姫だったはず。
ふうむ。
これは北九州に多い豊玉姫や安曇族の伝説につながる
神功皇后の、伝説?
神功皇后と、豊玉姫の関係や、いかに!!!
(こちらには、海に関係ある神社の祭神のお話しが詳しく載っています。
神功皇后には、豊姫という妹がいたそうです。)
そういえば…
豊玉姫は、ウガヤフキアエズを抱いている。
子を抱く豊玉姫命…
うわっ!そうなのだ!
明後日から、山中湖諏訪明神での
安産まつり!
なんてタイムリーなんだ?
弓矢を持ち
勇ましい姿で描かれることの多い皇后だ。
ほんとうに、この地に来たのかしら?
だとしたら…
松尾芭蕉がこの地を訪れたとき
ここは島だった。
隆起して陸地となる。
九十九島とは、現在も呼ばれている地名だ。
ここを後にする。
鳥海山へ向かう。
途中には…
田んぼのあちこちに
九十九島が点在する。
不思議な風景…。