2月11日
満月にmioさんにご案内頂き
津久井の
青野原
青山へ行った旅の続きのお話です。
金徳山 光明禅寺
驚いたのは
御住職さまが
相模原市・64・千部塚伝承地
やはり…
キーワードはこちらの客殿の玄関。
中に入ると
今年の1月10日に突然行った
伊豆の松崎で出会った
コテ絵…。
こんなところで出会うとは!
御住職さまが
にこやかに向かえてくださって
何故、こちらへ?
と尋ねてくださったので
『雛鶴姫伝説を追っているんです。
こちらに、大塔宮さまの供養塔があると聞いたものですから。』
そんなお話をしたのだけど
『雛鶴姫は、一ヶ月ほど、この寺に滞在したようです。』
と、御住職は仰った。
(一ヶ月も滞在とは!
わたしたちが知っている雛鶴姫伝説では、わずか数日間だったのだけど。)
せっかくですから
御本尊をご案内します。
と言われ
御住職の案内で
奥へと。
客殿にあったのが
三十三観音!
西国三十三観音を模したものだという。
本堂へ。
津久井 三姫物語の地、に
三天女!
合わせて六女神‼
出来過ぎ…。
六地蔵は
六の大地の子宮だったね。
『千部塚、というのがあって
そこが、大塔宮さまの供養塔という伝説があるんですが…』
御住職、
本堂に掲げた古地図を指差して…。
えええ?
場所を聞けば
先ほど訪れた
『青山神社』の真上になってる‼
江戸時代の古地図では
青山神社は
『諏訪神社』になっているのだけど。
こんな記事に巡り合った。
相模原市・64・千部塚伝承地
『千部塚は、大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)の三十三回忌に法華経千部を修し、供養塔を建立した場所と伝えられています。
その塚上には、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部である、相輪(そうりん)1、笠(かさ)1、塔身(とうしん)2、基礎2、返花座(かえりばなざ)1が保存されています。
このうちのひとつに南北朝時代の応安4(1371)年の銘を持つ宝篋印塔の基礎があり、「願主蓮明敬白」と刻まれています。
その他の宝篋印塔の部分は室町時代のもので、塚は近代の盛土であることが、発掘調査で判明しています。
江戸時代後期の「光明寺素絵図」(こうみょうじそえず)には、「千部塚」の表記があり、この名称が、明治時代以前から伝えられていたものであることがわかります。
また、護良親王の妃の雛鶴姫(ひなづるひめ)が、親王の遺骨を捧持して京へ逃れる際、青山に辿りついたとする伝承が残されています。』
やはり…
宝篋印塔なのだった。
ここのところやたら出てくる
後醍醐天皇の孫、
大塔宮さまの甥っこ、と言われている
『ゆきよし親王』
の墳墓といわれる
宝篋印塔。
『尹良親王(ゆきよししんのう)』
『浪合記』『信濃宮伝』などの軍記に見える南朝の皇族。それらの記すところによれば、後醍醐天皇の孫にして、中務卿宗良親王の王子であり、母は井伊道政の女とされる。 ウィキペディア
長野県下伊那郡阿智村浪合字宮の原に所在する円墳に治定されており、陪塚3基とともに宮内庁の管理下にある。』
この方が実在したとしたら
大塔宮さまの
甥にあたると言うことだ。
話を戻すと…
この日はなんだか安堵して
ここ、
光明禅寺を、後にします。
『鐘楼をついていってくださいね』
御住職に言われ
お言葉に甘えて
お優しい、御住職さま。
そして
mioさん。
ほんとうにありがとうございました。
これで、最大の目的
(大塔宮さまの供養塔と、雛鶴姫さまに代わって御礼をすること)
達成できました。
なんだけど
濃い旅は
まだまだ続きます。