梅若王の墓?
あの、南朝
悲運の皇子と言われている
護良親王の曽孫にあたる人物の
墓が
忍野村内野
わが家のすぐ近くにあると
『宮下文書』が伝えるという。
『探求 幻の富士古文献』によれば
富士山北麓に存在したという
護良親王の曽孫はふたり、記されている。
『松若王』
と
『梅若王』
千四百年代のことで、
日本の歴史では、
南北の統一がなされたとされる
室町時代のことである。
曰く、
『お舟山宮松若王は、浄土真宗にて入道し、遠山山無良庵と名乗る。』
『遠山山無良庵、今日の新倉山正福寺の初期にして後醍醐天皇の第二皇子、護良親王の直系、入道して正福法師という。』
『弟の梅若王は、忍野村忍草、表向きは浅間神社というが、実状は南朝天皇を木像に彫刻し、祭祀する神社とあり、梅若王はこの神社の神主を務めていたが病死した。
よって梅若王の墓地は、同村内野の宮の脇、上天寺の旧墓地、渡辺家の祖先墓に、宝篋印塔が現存する。』
宝篋印塔???
それはどんなものだろう?
『内野の浅間神社も表向きは、忍草と同様、祭神は木花咲耶姫というが、実状は梅若王を祭り、旧暦三月十五日祭典をし、当日の雨を梅若様の涙雨と言い伝えた。』
わたしの家から徒歩五分の
内野浅間神社が、
護良親王の曽孫、梅若王を祀っているって???
しかも、旧暦三月十五日が命日で、その日に祭典をするって?
そんな話、聞いたこともないなあ。
まあ良い。
何しろ、探してみよう。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは…
ふうん。
陀羅尼という呪文を収めた塔のことをいうのね。
この、[陀羅尼』の画像が見つかった。
エンドレスだ‼
形は石塔で
関西型と関東型があるらしい。
このようなものがあれば
目立つだろうな。
はやる心で
内野浅間神社へ。
なんとも言えない空間があり、
以前、探索したことがある。
古い墓石が何組かあり、
どなたのお墓なのだろう、と思った記憶がある。
そここそが
旧 長寿山上天寺の跡地、
と
なぜだかわからないけど、確信があった。
幾つかのお墓を過ぎ
一番目立たぬところに
それはあった。
という塔婆が無ければ
わからなかったかもなかったかもしれない。
『梅若王ノ墓』
わたしは確信した。
その前に
立っているのだ。
兄の、松若王の墓はどこにあるのだろう。
ふと
『梅で開いて松で収める』
という言葉を思い出した。
「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。』
大本教出口王仁三郎の言葉。
三月十五日の雨は
梅若様の涙雨???
家に帰って、忍野村の公式HPを調べても
梅若王の名は、どこにも出てこなかった。
妙だなあ…,
宮下文書(富士古文書)と
村の広報の記述が
違い過ぎる。
諦め掛けたとき、
それは出てきた。
山梨県神社庁のページには…
『内野浅間神社』
南北朝合の後応永年間一品兵部卿尹良親王は南朝の四皇を奉祀して四皇三社浅間大神と稱し奉る。
其の霊を産土神に祀る足利氏に憚り富士浅間神社と稱す。
明治五年村社に列す。明治五年村社に列す。
うわあ〜
出た!
梅若王‼、
やはり、ほんとうだったんだ!
例大祭の四月十五日は
旧暦の三月十五日
梅若王の命日から来ているのだろう。
その日は無形文化財の獅子舞が出て
神輿が、天狗社と八幡神社と
ここの浅間神社の三箇所を回るはずだ。
それにしても
なぜ、わたしはここに引っ越して来たんだろう。
地元の人が、気にも止めないようなことを
ひとりで探求している。
わたしは
何に動かされているんだろう。