思えば今年の後半は
ほんとうに、
首
首
首
に、翻弄されていたものです。
南朝の皇子
護良親王の首!
(下吉田浅間神社)
後鳥羽上皇の側近
藤原光親の首!
(加古坂神社)
八面大王の首塚!
(松本、筑摩神社)
だから
この日、1123は
首の集大成となるのだと思う。
もともと
あんまり、好きじゃないのよぅ
その手の話。
ましてや、呪いとか
封印とか…。
それに。ご神事などにもわたしの役目などではない、と感じていて。
光の柱を立てる、とか、
封印を解く、とか
龍を起こす、とか
は
おそらく
他の方が行うことであって
わたしがそのような方をご案内することは
ガイドとしては、まあ
ありなんだけど。
わたし自身が、どうのこうの
というのは
明らかに、違うなあ、と。
だけど、
唯一の役目として気がついたのは
お水をつなぐことなのか?
それも、よくわからない。
だけれども、
この日の朝
お風呂に入っているときに
突然
あ、富士のお水
富士のお水を首塚につながなくては、と
思ったんだ。
しかも。富士の水の どの水???
すぐに、わたしにはわかって
そこに、時間ギリギリで、汲みにいったんだね。
で
その水を携えて
将門の、首塚に向かいます。
その前に
少しだけ
平将門のことを。
(坂東市ベルフォーレ前の平将門の銅像)
『平 将門(たいら の まさかど、-將門)は、平安時代中期の関東の豪族。
平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。桓武天皇5世。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衙を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られる。武士の発生を示すとの評価もある。合戦においては所領から産出される豊富な馬を利用して騎馬隊を駆使し、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも言われる。』
(新暦3月25日)
こめかみに矢を受けて
没したという。
38歳であった、と伝えられる。
さて、
将門と 馬とは
縁が深く
将門を祀る『筑土神社』
には
黒駒の絵馬が奉納され
(この、築土神社は、もともと大手町にあったという。
現在の首塚の地である。)
相馬氏の家紋は
繋ぎ駒。
さて、
11月23日。
この日は祭日だったので
なんだか閑散としている。
ちゃんとした表示があるんだね。
毎日ここを歩くビジネスマンは
どのような気持ちでいるんだろう。
そこだけ、こんもりと樹に囲まれているので、すぐにわかった。
東京に40数年住んでいたのだけど、
ここに来るのは、生まれて初めてだ。
ああ、
だけど、なにか
温かい感じ。
何故なのだろう。
左右に
カエルの置物が…
かなり大きいのもあり
どなたかが、奉納したものだという。
首が京都で晒されて
関東の地に帰ってきたことから
『無事帰る』の語呂合わせだというけど
これは、後ずけだろうなあ。
わたしは、先日の
遠州の旅を思い出す。
『天白磐座遺跡』のあった
『渭伊(いい)神社』
渭伊は、ガマガエルを意味していたことを。
天白は、星神。
だから
わたしの勝手な妄想かもしれないけど
このカエルたちは
星の何かを表しているのでは?
明日香村の亀石も
ほんとうは、カエルだという説あり、
カエルって
今、とても重要なシンボルなんだ。
熊野の最後のお話も、
未だに書けないでいるのだけど
あそこも
『ゴトビキ』…。
やはり、星神だったのだ、と
わたしは今、思う。
富士山 某所で朝汲んで来た
何故、富士山のお水を汲んでこようと思ったかというと
将門さんが、富士山のお水を所望している、と
急に思い立ったのだ。
今年の5月
Sちゃんが、将門の祀られている
『国王神社』にいった時
こんな絵が有りました!
と、画像を送ってくれた‼
びっくりだった。
そうなんだね。
すでに、将門さんは
鎮まっているのだけど
たくさんの人々に
愛されついでに
わたしも、不二のお水を…。
で、
ミッション、終了‼
昔、大蔵省の建物があったというその背後には
三井のビルが建設途中で…
三井のマークって…
三???
大手町のシティーホテルのレストラン街で
スンドゥブを三人で食べて
マアトさんと、アイリィシュパブで
スコッチを頂いて…
ああ、
ほんとうに
なんだか、肩の荷が
降りたあ…。
東京、サヨナラ…。
将門さんのエネルギーも
富士山へ、連れて行ったりして…。
またしても
妄想、妄想…。