『後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)といえば、三種の神器を持たずに即位し、源氏から政権を取り戻すことを夢見て、承久の乱を起こした天皇です。
そして最後は島流しという騒然たる人生を送りました。
今回、後鳥羽上皇のかんたんな経歴、天皇なのに島流し?について、恨みで怨霊になった?について紹介します。
『後鳥羽上皇は平家滅亡という動乱の中、4歳で天皇に即位します。
しかしながらこの天皇即位は、即位必須アイテムの三種の神器が揃ってないという、異例の事態だったのです。
と、いうのも先代の天皇は、異母兄の安徳天皇(あんとくてんのう)で、あの平清盛の孫でした。
平家滅亡の際に三種の神器のアイテムと一緒に壇の浦に沈んだとされているからです。
(諸説ありますが、その後捜索され現在まで三種の神器は揃っているようです。)
その頃の世は、源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に幕府を開き、政治の中心は源氏にありました。
が、京都を中心とした西側一帯は貴族たちの荘園もあり、鎌倉政権と朝廷との複雑な力関係が交錯していた時代でした。
そんな時代だからこそ、後鳥羽上皇は源氏から政権を奪い返そうとずっと計画していたのです。
その計画に闘志を燃やしながらも、乗馬や弓を始め武芸を磨き、特に和歌の才能はピカイチでした。
百人一首を作った藤原定家(ふじわらのさだいえ)と、和歌を巡って真っ向から対立したエピソードが残っているくらいに情熱を注ぎ込みます。
そして承久の乱を起こす前の33歳の時に詠んだ歌が、
「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」
です。
99番目の歌人として百人一首に選ばれており、その意味は、「人を愛しくも恨めしくも思う。世の中も自分の思い通りにならなくて悩んでしまうよ。」と、いった感じです。
武家との力関係が複雑な激動時代だからこそ詠んだ歌なのかも知れません。』