ココロの旅 続きです。
1990年4月に
「地球意識」をテーマとした秋冬コレクションを
恵比寿の古いビール工場跡地で行なった話しを書いてから
ずいぶんと間があいてしまったけど
ゆっくりと書いていこうと思います。
コレクションと呼ばれている秋冬のファッションショーが終わると
ご褒美のようにGWがやってくる。
ここ数年の話しだけど
この時期は盆と正月に続くまとまった休みが取れるので
海外に逃げ出していた。
それは本当に逃げ出していた、というに相応しい。
それは自分が日本人であることを忘れる旅であったからだ。
その12年後には
世界で一番美しい自然があるのは日本だと感じ
富士山麓に移住してくるのだけど
この時点では、そのことに気付いてもいない。
でも
クラインの壷のように
外へ外へ外へ
どこまでも意識を拡大しているつもりが
実は内側へ
自分自身の奥深くに向っていたのだろう。
その年の1月にちょっとしたきっかけで
ヨガなど始めていたので
最後にその直前に行ったブラジルとは
かなり異なった旅になるだろうとの予感があった。
その
結果的には会社員としては最後の海外旅行となる旅に
ネパールを選んだのはどうしてだったか覚えていない。
ほとんどの訪れる場所はなんらかのきっかけがあるのだけど
ヒマラヤの麓の小国行きを何故決めたのだったか。
そういえば、渋谷にネパール料理の店があって
当時はよく通っていた。
そこで仲良くなったネパール人がお兄さんがポカラで宿を経営していると
紹介してもらったんだった。
そのネパール料理屋に勤めていた従業員が
のちの東電女子社員事件で容疑者となって騒ぎになったのではなかったか。
あれはまったく謎の事件だったが
会社が当時目黒区青葉台三丁目の旧山手通り沿いにあり
帰りに渋谷駅に行くのに歩いて帰宅するときに
神泉という駅を通過して道玄坂に抜ける。
東電の女子社員が殺害されたアパートはその踏み切りの向こうにあって
会社の同僚がコンビニで聞き込み調査に協力したという話しもあった。
話しはそれてしまったが、覚えているのは
ネパール料理はとても日本人の口にあっており
その、渋谷の料理屋で情報収集してから その国にむかったような記憶がある。
覚えているのは
Sと二人でバンコクの往復チケットだけ買って
バンコクからネパールの格安チケットを買おうと決めたことだった。
いわゆるバックパッカーと言われている若者がよくその手を使うけど
わたしたちのようにフィックスチケット(行きと帰りの便が決まっていること)
だと、その空港に何日足止めするかわからないので大変危険なやり方だけど
当時はそんなリスクも楽しんでいた。
おそらくバックパッカーごっこをしてみたかったのだろう。
明日は風任せといった気ままな旅を気取っていたのだが
いついつまでに戻らなくてはいけないタイムリミットのある旅で
帰ればまたタイムカードと昨年対比が待っているのだ。
もっともあれほど自由が欲しかったのに
会社を辞めてしまったら、自由はとても退屈だった。
その自由になるまでにあと2ヶ月。
初めて降り立つヒマラヤの大地は
わたしに何をもたらしただろうか?