2月13日の江戸探訪の
これが最後の記事になります。
日本橋から皇居
そして新宿御苑までご案内してくださった
Sさんたちのお陰で
今までまったく知らなかった故郷東京の
いいえ、江戸のさまさまな渦巻く歴史を
垣間見ることが出来たような気がします。
中でもこの新宿御苑が、内藤家の屋敷跡ということは知っていても
何故ここに何故内藤家が領地を与えられたのか、Sさんが興味深い話をして下るまでまったく知らなかったのです。
「内藤新宿」の「内藤」は、信州高遠藩の内藤家の中屋敷があったことによる。
初代清成は徳川家康から、「馬で一息に回れる土地を与える」といわれ、清成の乗った駿馬は南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、広大な拝領地を得たという。
この馬が力尽きて死んでしまったので、
玉藻池の後ろの多武峯内藤神社の近くに
駿馬塚を作り功績を称えたといいます。
そして
全ての道は日本橋から発しているのに
甲州街道だけは、半蔵門から直接江戸城に直結している。
甲州街道は軍事用の特別な道なので、信頼できる家臣に広大な土地を与えた。
しかもSさんによれば
江戸城から地下壕を通って内藤家の屋敷に出て、そのまま甲州街道を通って安全な場所まで将軍が逃げるルートの計画があったというのです。
大手門はまさに大手。
日本橋と大手門が押さえられた有事の想定です。
不思議な気持ちになりました。
だって
日本橋から江戸城の天守閣跡に登り
内藤家屋敷跡から甲州街道を通って富士に帰る。
私が帰る、その道!
これってまったくの
将軍の闇ルートじゃないですか!
こんな記事を見つけました。
新宿御苑の敷地は、天正18年(1590)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷の一部です。
東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土地で、のちの甲州街道や青梅街道になる江戸から西にのびる街道と、鎌倉街道が交差する要所であったことから、この一帯の警護など軍事的な目的で家康が信頼できる家臣に与えたとされています。
内藤氏7代清枚は元禄4年(1691)に三万三千石の信州高遠城主となりました。内藤家の屋敷地はその石高に比べてあまりにも過分であったため、その後かなりの部分を幕府に返上しましたが、明治5年にはまだ十万坪以上が残されていました。 新宿御苑は、この内藤家の九万五千坪余と、当時すでに私有地化していたものの、もとは内藤家の屋敷地であった隣接地を合わせた十七万八千坪(58.3ha)の土地に誕生することとなりました。
(昭和9年当時の玉藻池)
また、現在大木戸門を入った突き当たりにある玉藻池を中心とする日本庭園は、安永元年(1772)に玉川上水の余水を利用して完成した内藤家の庭園『玉川園』の一部です。
このようなことから、新宿御苑のルーツは内藤家の江戸屋敷と言えます。
https://www.env.go.jp/garden/shinjukugyoen/1_intro/history.html