Sはそのころ「クン・サー」に興味を抱いていた。
麻薬王のように言われているけど
少数民族の独立のためにアメリカに利用されたあと
アメリカに裏切られた男だと信じていた。
わたしはその本を読んだけど
彼と異なるところに興味を惹かれた。
それは
少数民族の民俗的な部分
食文化や風俗などだった。
特に衣装には心を惹かれた。
そこにいて経済の問題から芥子の栽培を余儀なくされた
アカ族などの少数民族たちだった。
そこは「ゴールデントライアングル」
すなわち黄金の三角地帯。
タイ、ミャンマー、カンボジアとの国境である。
1988年のうちに
わたし達はバンコクに旅立った。
Sとのはじめての海外旅行。
バンコクからチェンマイに飛び
そこからチェンライという村にバスで行く。
そこからは舟。
何かの川を遡り「エレファントタクシーステーション」まで行く。
そこからは象に乗って。
ひたすら
少数民族の村へ。
カレン族の村で一泊
アカ族の村で一泊ホームステイという二泊三日の旅をした。
夜はカレン族のガイドが途中で捕まえたアルマジロの煮付けに舌鼓。
なにからなにまでカルチャーショック!
高床式の家が点在する少数民族の村は
なんだか故郷に帰ってきたみたいに懐かしかった。
すごく面白かったのは
そこにはわたしたちの日本の神社にある
鳥居そっくりな門がどこの部落にもあって
そこに「鳥」の木彫りが止まっていたのだ
村の入り口は結界でもある。
そこに鳥を止まらせることによって
村が魔物から守ってもらえると
未だにアカ族の人たちは信じている。
これこそが鳥居のルーツ!
そんな発見はとてもファンタスティックだった。
そのあとはまたバンコクにもどり
Sのお勧めの地元の人しか行かないビーチに向ってひたすら南下した。
マレー半島に向ってバスで行くと
顔もスタイルも全ぜんバンコクと異なる顔の人たち(マレー人)の坩堝となっていく
そこのビーチの名は
確かチャームビーチ。
一泊二人で1,000円くらいのコテージに泊まり
朝は60円くらいのタイラーメンを食べて
キッチュな時間を過ごした。
何もかもが新鮮で楽しかった。
ある朝
いつものように朝食をとりに屋台へ行くと
「ジャパニーズエンペラーが死んだ!」
屋台にいた人びとがわたしたちに教えてくれたのだった。
そのときのタイの新聞は
わたしはまだ取っていて
探せばどこかにあるはずだ。
大いなる昭和の終わり・・・・。
それは
1989年
1月7日。
今から25年前のことである。
(今回久し振りにクン・サーの事を調べてみたら
彼は2007年に他界していた。
このうちタイ北部に逃れた部隊のひとつ、国民党軍第27集団軍隷下の「第93軍」は、共産主義 化した中国からの国土奪還のための資金集めとして、民族、国境紛争の絶えなかったタイ北部に定住、少数民族解放運動を建前に武装を続け、アヘン 栽培で資金集めをしていた(そのために「アヘン・アーミー」「ドラッグ・アーミー」とも呼ばれた)。その第93軍兵士とシャン族女性の間に生まれたのがクン・サである。
クン・サ本人の経歴は明らかでないが、成人後、国民党残党と袂を分かち、アメリカ合衆国 (CIA )の支援のもとシャン族・モン族の独立運動を大義名分とする兵力2000のモン・タイ軍(MTA)を結成。この期間に麻薬 ビジネスを大々的に展開し、黄金の三角地帯 (ゴールデン・トライアングル)と呼ばれる世界最大の麻薬密造地帯を形成した。
だがアメリカが麻薬ビジネスの取り締まりに力を入れるようになり、やがてクン・サは国際指名手配される。そのためタイ北部から国境未確定地帯のミャンマー奥地に逃げ込み、「シャン族独立」を掲げてミャンマー軍と永く対立していた。しかし、ミャンマー軍との実際の戦闘はほとんど生じず(MTAは、むしろ同じく反政府勢力であるビルマ共産党 と激しく軍事衝突した)、1996年 1月、ミャンマー政府との間で突然停戦合意をして投降した。投降後はミャンマー政府の庇護に置かれ、首都ヤンゴン で生活。麻薬で得た資金を合法ビジネスに転用して、ミャンマー・タイにまたがる財閥を作り上げた。アメリカ政府はクン・サの身柄の引き渡しをミャンマー政府に要求したものの、同政府はこれに応じなかった。
なお、クン・サの転向と第93軍指揮官である段希文が死去したこともあり、第93軍の元兵士および家族は、クン・サのミャンマー政府投降以前の1987年 に武装放棄、タイ国籍を取得している。2007年10月26日に、ミャンマーのヤンゴンにて死去。