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Channel: トヨタマヒメ富士日記
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ココロの旅 「愛するものの生と死」

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自分がどれほど愛していて

どれだけ共にいたいと願う存在とも

やがて

別れは訪れる。



この三次元地球では

肉体は永遠ではない



わたしは1990年のことを突然書こうと思い立ったのだけど

やはり、父の死

1988年を乗り越えたところから始めなくては

今日のわたしにたどり着けないのでは、と

思い始めた。



それで

少し父の話を書こうと思う。






1・父の生



父には姉が二人いた。

その姉妹の古い写真を見ると

たいへんな美人で

まるでハリウッド女優のように日本人離れをしている。

その姉ふたりに大学まで出してもらって

大変可愛がられて父は育ったようだ。



父の母親、つまりわたしの祖母は、父の父親、つまりわたしの祖父が若くして亡くなると

渋谷の道玄坂のお茶問屋の旦那と再婚をした。



それで父は自分のおじいちゃんと、姉二人に育てられ

大学卒業後は何故か絵の道に入った。



戦争に行き、帰ってきたときには東京は焼け野原で

画材も何もかも焼けてしまい

画家仲間と、少しづつ画材を買い揃えて

横浜の港の見える丘公園で、進駐軍、すなわちGHQ相手の似顔絵描きを始めた。



それまで敵国だったアメリカ人相手に仕事をするのは抵抗がなかったのだろうか。


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父が繰り返しわたしに話してくれたことは

ハリウッド映画が大好きで、しかも無声映画の時代

浅草に住んでいた父は、子供の頃から毎日映画をひとりで見に行っていたそうだ。

映画の中にでてくる「電気洗濯機」「電気掃除機」などの電化製品に子供心にも

「すごい国だ」と感嘆していたのだという。



そんな大国と日本が戦争をしたら

絶対に負ける、と思っていた。

日本はアメリカと決して戦争をしてはいけない。



「なんで反対しなかったの?

戦争反対って言えばよかったじゃない。」



小さい頃、わたしはよく父に訪ねた。



「そういうことを言える時代じゃなかったんだよ。」



「そういうことって何?

そういう時代って何?」

言いたいことをいえない時代、ということが

わたしには理解できなかった。





そして、ことあるごとに

女は一歩下がって男に後ろを歩かなくてはならなかったんだ。

今の時代に生まれて、IRUY(わたしのこと)は幸せなんだよ。

もし戦争に勝っていたら(そんなことはありえないけど)

今でも女性は選挙権もなかったかもしれないんだ。



そうなんだ・・・

絶対嫌だ、男の一歩後ろを下がって歩くだなんて。

小学校の同級生の男の子はほとんどがみな頭が悪いと感じたし

近くのアパートの中庭に猫の死骸があって

どうしたのかとそのアパートの友達に聞いたら

子供たちがよってたかって石を投げて殺したって。

そんなことをするのは男の子だ。

野蛮で幼稚で残酷なのだ。

ああ、いやだいやだ。

男はみんな父のような人ばかりだといいのに。

虫も殺せないほど優しくて、それでいて聡明で、ダンディで

何よりもものすごく絵が上手なのだ。

わたしは完璧な、典型的なファザコンに育ってしまった。



戦後、

横浜の公園で似顔絵描きを始めた父とその仲間たちは

協定のようなものを結んで、何十メートルかおきにイーゼルを立てることにした。

ところが

見本を飾っておくと、それを見比べて「米ちゃん」(父はアメリカ兵のことをそう呼んだ)が来るのだけど、父のところだけ大変な繁盛なのだ。

同じ米ちゃんが何度も何度も来る。

最初は自分の似顔絵を、

次に自分の奥さんの写真を持ってくる。

そのうちハリウッド女優を自分の軍服の背中に描いてくれと持ってくる。

そしてその仲間や、上官まで連れてくる。

そんなこんなで父のところだけ

いつも長蛇の列が出来たのだという。



「似顔絵にはコツがあってね、少しだけ美男子に描いてやるんだ。

その少しの加減が大切なんだよ。」


日本は戦争には負けたけど、アメリカ軍はこの父の作戦に負けた。

やがて、あるときGHQの「えらいさん」が訪れた。

そこの本部に連れて行かれて「お抱え絵師」となり、

かのマッカーサー元帥にもお目通りが許されて

物資の無い時代に何ひとつ不自由することなく

数年はGHQの仕事でお金をためて

新宿に家を建てたのだ。

それももとドイツ人将校が住んでいた土地を没収したものを

安く払い下げしてもらったのだという。



その後に父と母は結婚するのだけど

ふた回りも年の離れたふたりの出会いの話は煩雑になるので

今回は明かさないことにする。



姉もわたしもその家で生まれ

相変わらず父は右腕一本でわたしたちを養い

物心ついたときには、家には女中さんとお弟子さんが住んでいた。

「しいちゃん」というお手伝いさんと

「さとうくん」というお弟子さんだ。

姉もわたしもこのふたりによく面倒を見てもらった。

わたしが小学校低学年のときには

ふたりともいなくなっていた。

「さとうくん」は独立したといっていたし

「しいちゃん」は田舎で縁談が決まってお嫁にいったらしい。




























































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