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旅の終わりに 2013 12・18

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今年はほんとうにたくさんのところにぐるぐると行かされた。

でも

最後にchiaさんが連れて行ってくれることになった

この「大雄山最乗寺」は

いままで見聞きしたこともなかったのですが

すっごく楽しく、気持ちよくて、

意味のある時間と空間に思えてきます。


ここの追求的には最後の記事になりますが

この話も

まだまだ終わりはないのかもしれません。


あの石碑に書いてあったこととは・・・・


「当山鎮守三面大黒天を奉納する。

開設にあたりその工を助けた

飯澤、矢倉の二明神と箱根権現の三身を一体とした福徳○○の御像である」


ここで「工」の字がでた!

それは最初にchiaさんが教えてくれた

「大工さんなんかの職人さんが必ず行く」という言葉・・・・

つまりこんな山奥にこれだけの伽藍を建築するには

宮大工や石積みに携わるたくさんの職人がその仕事に従事したはずだ。


最初に地図を見たときに

「矢倉」がとても気になった。

だからここで

矢倉と箱根権現が出たときに

「やっぱり!」という思いがあった。


でも

この三身を一体としたという「飯澤」は、初めて聞く地名であった。


だから家に帰って最初にしたことは

「飯澤 三面大黒天」で検索したことだった。


そうしたら

すごく面白いものを見つけてしまったのです。


「道了さま」は実在の人物で

了庵というかたの弟子。

(了庵さまは神奈川県の大山で活躍、箱根権現の血脈を授けたということ)

道了さまは最乗寺の伽藍を建立するさいに活躍し

のちに天狗となって伽藍を守護した。

既存の山岳信仰の形態に新しい信仰の形態を与えたということです。


(こちらは曹洞宗が山岳信仰と結びついて発展してきた過程と

石工集団と結びついていったという興味深い話が書かれています。)



曹洞宗は、室町時代から江戸時代初期にかけて飛躍的な発展をとげました。現在では全国に一万四千ヶ寺を擁し、単独の宗派としては最大の規模を誇っています。

このように、曹洞宗が全国に広まる際に、その担い手になったのは多くの民衆達でした。一般に、禅宗は武士が担い、浄土真宗は民衆と農民と武士が支えたと考えられていますが、そうした考え方は改められるべきでしょう。

また、曹洞宗が広まった地域に関しては、第一に山間部、第二に交通の要衝、第三に農村地域が挙げられます。

まず、山間部での曹洞宗の展開を見てみましょう。ここでは、山岳信仰との密接な関係が窺われます。

例えば、富山県の立山地方で活躍した大徹宗令(1333―1408)は、立山信仰と深い関係を持っていました。彼は、樵夫(きこり)に姿を変えた立山権現(神)に授戒を行い、その権現から寄進された巨木を用いて立山寺を建立したと伝えられています。また、彼の弟子達は立山の参詣道に寺院を建立し、同派の発展を支えました。

一方、了庵慧明(1337―1411)は神奈川県の大山で活躍しました。彼は、同地方の鎮守である箱根権現に血脈を授け、その返礼として、芦ノ湖の水をその地に湧出させたと伝えられています。また、了庵は近隣の村の飯沢明神や矢倉沢明神にも説法を行ったと言われています。さらに、弟子の道了は、小田原の最乗寺の伽藍を建立する際に活躍した人物ですが、後に天狗になって伽藍を守護したと言い伝えられています。こうした了庵や弟子達の活動は、既存の山岳信仰に、新しい信仰の形態を与えるものだったと考えられます。

次に、交通の要衝での展開を見てみましょう。ここでは源翁心昭(1329―1400)に注目したいと思います。彼は、島根県から福島県までの非常に広い範囲で活躍し、約20カ寺を建立したと言われています。

その中で、茨城県の安穏寺には巨大な石塔が残されています。この石塔や彼の他の事跡から推察すると、彼の周辺には石工集団が存在したのではないでしょうか。と言うのも、寺院を建立する時には土台となる礎石が必要ですが、源翁自身が指揮をとり、石工集団を統率していたのではないかと思われるのです。

また、彼は福島県にある熱塩温泉の示現寺を再興しました。そこでは、何らかの形で温泉の開発にも関わったと思われます。

さらに、彼の逸話で有名なのが、栃木県の那須高原にある殺生石の話です。旅人にいたずらをする魑魅魍魎を殺生石に封じ込め、それを杖で割って退治したということですが、そこは有毒ガスが蔓延する地域でした。ですから、実際には退治ではなくて、有毒ガスを避ける新しい道路の敷設だったと推測されます。

このように、源翁は各地を行脚(あんぎゃ)する際に、職能集団とともに行動し、それぞれの地域の開発等で、多方面の活躍をしたと考えられるのです。

(中略)

では最後に、論題にもある東南海大地震に触れておきましょう。曹洞宗の発展との関係で注目すべきなのは、明応7年(1498)の明応地震です。記録によれば、この地震では、紀伊半島から江戸湾までの広い範囲が、多大な被害を受けたということです。

この大地震にちなんで、松堂高盛(1431―1505)は僧侶や信者への説法を行いました。その中で彼は、人々が神仏に対してみだりに祭酒を奉納し、託宣を受け、その加護を期待することを批判し、むしろ災害から逃れるためには、自己の行いを正すべきだと説いています。



このあたりで

すべての答えがでてきたような気がします。


神格化された修験道者

了庵と道了という人物。

そのかたたちが本当に偉大だったのでしょう。

だから今日まで、敬愛されているのでしょうか。


最後は

この「三面殿」で引いた

ある不思議なおみくじの話です。


続きます。


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