今月中にこの話(熊のトーテム 鳥のトーテム)
『朴炳植氏によれば、新羅を中心とする第一期ヤマト王朝とは神武から仲哀にいたる王朝であり、百済を中心とする第二期ヤマト王朝こそが、応神王朝だったのである。
ここで、日本各地に祀られた兵主神(蚩尤)が天之日矛につながる新羅系渡来人が奉ずる神であったと仮定するなら、両面宿儺(私説よれば蚩尤)の討伐者を武振熊(百済系の軍人)としなければならなかった理由は自ずと明らかとなる。古代において、百済と新羅という図式は、同時に畿内王権の一貫する対立抗争の図式でもあった。それが最も顕著に露呈したのは、天智から天武にいたる時代であったと私は思う。その時代の強烈な印象が、まだ生々しく生きていた時代に『記・紀』の基礎資料が編集されはじめていたのである。』
を、終わらせてしまいたいわたし。
あと、2日しかないのだわ。
もう一度、このパラドックスにはまり込んだのはなんだったのか?
初心に戻ってみる。
今年になって、山梨県や、静岡県に
“熊野神社”が 数多あることに気がついたわたしは、
それは、ただことではないのだな、と
直感するのです。
だから、
それはなぜなの?
わたしの前にふらりと出現する、熊野神社は
ナニが言いたいの???
多様的に考えていったとき、
ん?
熊は、
クマではなく
くま?
動物の熊ではなく
霊獣としてのくま?
神として?
カムイ、カム、クム、クマ?
それは、熊をトーテムとする民族がいるのではないかしら?
だとしたら、
それは山の民、
森の民、なのでは無いだろうか???
頭がグルグルになったとき、
『熊のトーテム』で調べてたら
『太陽族 ラ族』の話に行き当たったのです。
それは、なんと!
朝鮮半島での話だったのね。
『朝鮮半島には、その中央を縦に走る太白山脈があり、その東側には太陽族、即ち太陽神を信じていた太陽信仰族がいて、その西側には熊をトーテムとする信仰を持った部族がいた。特に東側の太陽信仰族は地名に太陽神(=「ラ」)という言葉をよく使ったので、この地域には羅津、羅南、新羅、伽羅等の地名が多く、日本の奈良(ナラ)という地名もこれに属する。これらは全て太陽信仰属の残した地名である。『古事記』、『日本書紀』等に残された神様の名前や現在の日本人の名前にもよく使われる「ヒコ」(彦)のもとの形は「日子」であり、「ヒメ」(姫)のもとの形は「日女」である。その意味は「日の子供」「日の女」であるが、これも太陽信仰族の残した言葉であり、日本の弥生時代前期の信仰トーテムが実は太陽であったのだ。
ところが、その後、百済を中心として、熊を信仰のトーテムとする渡来人達が半島から押し寄せてきて、太陽信仰族である第一期大和王朝を滅ぼしてしまった。(「ヤマト言葉の語源が語る日本民族の起源」『古代朝鮮と日本』泰流社)』
ところが、その後、百済を中心として、熊を信仰のトーテムとする渡来人達が半島から押し寄せてきて、太陽信仰族である第一期大和王朝を滅ぼしてしまった。(「ヤマト言葉の語源が語る日本民族の起源」『古代朝鮮と日本』泰流社)』
こちらより
この話にたどり着いたとき、
わたしは小躍りした。
なんとなく、
自分の仮説が正しかったような気がして。
弥生時代前期のトーテムは、太陽であった。
しかし、後期には、熊をトーテムとする渡来人種が第1期大和王朝を滅ぼしてしまった???
ちょっと長いけど
このまま、転載しますね。
『朴炳植氏によれば、新羅を中心とする第一期ヤマト王朝とは神武から仲哀にいたる王朝であり、百済を中心とする第二期ヤマト王朝こそが、応神王朝だったのである。
紀元三六二年、太陽王朝最後の天皇である仲哀が「クマソ」征伐の途中、謎の死を遂げることによって、第二期ヤマト王朝が「クマソ」の手によって始まることになる。その証拠に、『記・紀」から、神功皇后以降、「クマソ」の名が消えてなくなっている。そして、その代わりに登場するのが「エミシ」なのである。(同右)
ここで、日本各地に祀られた兵主神(蚩尤)が天之日矛につながる新羅系渡来人が奉ずる神であったと仮定するなら、両面宿儺(私説よれば蚩尤)の討伐者を武振熊(百済系の軍人)としなければならなかった理由は自ずと明らかとなる。古代において、百済と新羅という図式は、同時に畿内王権の一貫する対立抗争の図式でもあった。それが最も顕著に露呈したのは、天智から天武にいたる時代であったと私は思う。その時代の強烈な印象が、まだ生々しく生きていた時代に『記・紀』の基礎資料が編集されはじめていたのである。』
むむむむ…
仲哀天皇、
神功皇后、
応神天皇、
武振熊(タケフルクマ)!
先日のブログに書いた
これら全てが
朝鮮半島と深い関係にあるというのだろうか…。
先日のブログ
さらには、
熊をトーテムとする渡来人種は、
どこから来たのか??
さらに古代を紐解けば 、
それは、中国の黄帝にまで結びついてしまうみたい。
『中国社会科学院文学研究所教授で中国神話学会会長である葉舒憲氏は、7日に上海図書館で開かれた講座において、「我々は自分たちを“龍の伝承者”と言うが、古代にそのような言い方はしなかった。当時は熊が東アジア大陸の神だった」と述べた。
葉舒憲氏は取材に対し、この奇想天外な発見は文献や出土文字、口伝、遺跡、文物、写真など「文学人類学に即した4つの根拠」に基づくと述べる。
現在の熊の概念は、古代に比べ大きな差異がある。「華夏の神話において主流たる神は“神熊”だった。楚の王が王位に登るときはいつでも“熊王”と呼んでいた。司馬遷は20人あまりの“熊王”を記載している。“河西回廊”(甘粛省の西北部)の西側にあった魏晋の墳墓には“熊”たちが並んでいる。無形文化遺産の中では、ホジェン族が代々、魚皮で作った熊のトーテムがある」と同氏は述べる。』
うーむ。
『現在の熊の概念は、古代に比べ大きな差異がある』
というのは、
ものすごく、よくわかるのです。
例えば…
日本でも、
狐(キツネ)
狸(タヌキ)
山狗(ヤマイヌ)、
などなどは
実際の動物としての彼らと、
霊獣として霊力をもつ神としての存在と
二重の意味をもつのです。
熊のトーテムを持つ民族も
動物としての“熊”というよりは、
熊を神としてその霊力を崇め祀る
そんな『山の神、森の神』として
霊獣としての、クマ、クム、カムイ…。
それが、西洋では
霊獣は、“獅子”となるのです。
サバンナの王である獅子と
森の王である 熊。
クマ、クム、クナ…
それは、深い深い森を持つ土地に居なくては、
感じられない守護アニマルであるのかも知れません。