『黒又山は1992年から1994年にかけて、考古学的調査が行われた。黒又山遺跡の出土遺物には、石器や石造品、土器、土製品の基本的遺物があげられる。また、鉄釘や古銭なども出土している。特筆すべきなのは、石英安山岩からなる刻文石製品で、山頂部、斜面、山麓部から16個ほど出土している。
刻文石製品は縄文時代に小型のものが若干調査例があるが、大量に大型のものが狭い区域に集中して出土するのは、極めて特筆すべきことである。大湯環状列石という縄文時代後期初めの宗教祭祀遺跡から直線距離で2km内外にあることも考えると、この黒又山も山岳宗教祭祀の場であったと考えられる。
発掘された石は岩偶と思われる物も含まれており、最大で42×25×18cm、最小で8×4.5×4cmで、いずれも人頭大前後ばかりのもので、ちょうど人が持ち運びできる程度の重さである。刻まれた「文様」は黒又山の南西にある猿賀神社の「御神体石」に刻まれた文様と酷似している。』
『この黒又山ピラミッドに、日本初の学術調査団が入ったのは、1992年のことだった。その結果、いくつかの事実が明らかになっている。
まず、レーダーによる地質学調査で、山体そのものは溶岩が盛りあがってできた自然の構造物であることが判明した。ところが斜面には、7段から10段ほどのテラス状の遺構も確認されている。このテラスは張り出し部分で幅約10メートル、高さは2~3メートルもあり、麓に近づくほど広く高くなる傾向があった。また、テラスの表面には小さな礫がびっしり貼られていることもわかっている。
ということは、かつての黒又山ピラミッドはこの礫で覆われていたことになる。現在のように樹木で覆われていない状態であれば、礫が太陽の光を反射し、この世のものとは思えない美しさで輝いていたに違いない。
一方、山頂は現在では平らに整えられており、そこに本宮神社が鎮座している。近くではメンヒル(立石)や縄文土器も発見されているから、この山頂が古代における祭祀場であった可能性はきわめて高いと考えられる。
さらに、神社の真下には巨大な岩が存在することと、頂上から少し下った場所の地下10メートルほどの地点には、南・西・北の三面を壁で囲まれた一辺10メートルほどの空洞があることもわかった。つまり、黒又山ピラミッドは、もとになる基底部分こそ自然の山だが、地下や表面に人の手が加えられているというわけだ。また、神社の地下にある巨大な岩を酒井がいう太陽石だと考えれば、過去においてはその周囲にストーンサークルが配置されていたことも十分考えられる。』
『実は不思議なことに、この黒又山は東西南北、そして夏至と冬至の太陽のラインに沿って正確に、周囲に神社が配置されている。実際、僕もGPSで調べてみたが、高度な測量技術があったと思える正確な配置だ。
なぜこのように黒又山を神社で取り囲む必要があったのか。神社は神道、もしくは仏教の施設であり、大和朝廷以降に建築という形で建てられたものが多い。土着の古代宗教とは一線を画すものである。黒又山や環状列石が先にあり、神社は後から建てられたと考えるのが自然だ。
里山に無作為に建てられたのなら、信仰の篤い土地で片付けられるが、まるで懼れるかのごとく、周囲を正確に、しかも裏鬼門の方向にもしっかりと神社を造るのは、陰陽道の考え方だ。そこまで懼れられた黒又山とは一体何だったのか。
もうひとつ、不思議な事実がある。この土地の縄文遺跡の分布を見てみると、環状列石近くにはわずか2つ、黒又山の周囲には多くの遺跡が見つかっているのだ。つまり人々はこの黒又山を取り囲むようにして生活していた。
間違いなく、ここは普通の三角山ではなく、特別な何かがあったに違いない。』