9月1日に訪れた
大人と異なるのは
青森の“三内丸山遺跡”でのお話の続きです。
“大人の墓”の話はすでに
『あの世とこの世』でお話したけれど
ここ、三内丸山遺跡では
『大人の墓』
と
『子供の墓』は
埋葬される方法も場所も
全く異なっていたのが印象的でした。
(これは、三内丸山遺跡だけではなく、広く
日本における縄文時代の死生観によるものみたい。)
280709日本子ども史(4)=縄文時代の子どもの死~大人と子どもの死者に対する認識の相違 大西敏博
『縄文時代は自然に依存し、自然とともに生きた平和な時代だった。縄文社会に戦争の痕跡はなく、人びとは自然の中で寄り添いながらおだやかに生きていた。
死者をめぐる葬送の儀礼は、生者の精神のありようを反映している。他界観念の成立は、この世とあの世を包括的にとらえるという、精神の広がりをもたらした。縄文人はすでに死者に花を捧げるという優しい心を持っていた。長野県野尻湖近くにある一万年以上前の縄文人の墓には、カシとカエデの花が、また北海道の日進一九遺跡やエサンヌップ三遺跡には、キク科の花が捧げてあった。
葬送をめぐる習俗の中で、ここではとりわけ幼児の葬送儀礼を考えてみたい。縄文時代にすでに、大人と幼児では死の扱われようにちがいがあった。それは縄文人の幼児観の反映だと思われる。
縄文時代は成人の墓域は確定されており、土葬によって葬るのが一般的であった。それに対し幼児は甕に入れられ、大人の墓地とはちがう場所に葬るという甕棺葬がとられていた。つまり幼児と大人は葬られる墓域がちがい、葬法にもあきらかな相違があったのである。
幼児だけの墓地として知られているものに筏遺跡がある。この葬地はいくつかのグループに分かれ、それぞれ26~30メートルの間隔があるという。発掘の結果、成人を埋葬したという確認は得られず、小児葬を主体とした共同墓地であることが確認された。しかし、近くに集落があったかどうかは未確認とのことである。
縄文人は生活の場のすぐ近くに墓地を定めていた。幼児の墓地も例外ではない。青森県三内丸山遺跡からは、居住区域の北側から七〇〇個もの幼児の甕棺が出土している。大人の墓地は別の場所にあって、ここは幼児だけの墓地である。』
『縄文時代は自然に依存し、自然とともに生きた平和な時代だった。縄文社会に戦争の痕跡はなく、人びとは自然の中で寄り添いながらおだやかに生きていた。
死者をめぐる葬送の儀礼は、生者の精神のありようを反映している。他界観念の成立は、この世とあの世を包括的にとらえるという、精神の広がりをもたらした。縄文人はすでに死者に花を捧げるという優しい心を持っていた。長野県野尻湖近くにある一万年以上前の縄文人の墓には、カシとカエデの花が、また北海道の日進一九遺跡やエサンヌップ三遺跡には、キク科の花が捧げてあった。
葬送をめぐる習俗の中で、ここではとりわけ幼児の葬送儀礼を考えてみたい。縄文時代にすでに、大人と幼児では死の扱われようにちがいがあった。それは縄文人の幼児観の反映だと思われる。
縄文時代は成人の墓域は確定されており、土葬によって葬るのが一般的であった。それに対し幼児は甕に入れられ、大人の墓地とはちがう場所に葬るという甕棺葬がとられていた。つまり幼児と大人は葬られる墓域がちがい、葬法にもあきらかな相違があったのである。
幼児だけの墓地として知られているものに筏遺跡がある。この葬地はいくつかのグループに分かれ、それぞれ26~30メートルの間隔があるという。発掘の結果、成人を埋葬したという確認は得られず、小児葬を主体とした共同墓地であることが確認された。しかし、近くに集落があったかどうかは未確認とのことである。
縄文人は生活の場のすぐ近くに墓地を定めていた。幼児の墓地も例外ではない。青森県三内丸山遺跡からは、居住区域の北側から七〇〇個もの幼児の甕棺が出土している。大人の墓地は別の場所にあって、ここは幼児だけの墓地である。』
子供の墓は
三内丸山遺跡だけで
880基も見つかっている。
(前出の引用と数が異なるのは、さらに発掘により発見されたということです。)
それらのほとんどが乳幼児のようで
大人の墓の割合に対して
いかに乳幼児の死亡率が高かったことの証明のようで、
だからこそ
日々の祈りは
出産とその後の子供の成長に関することだったのだと想像出来る。
乳幼児は
甕に入れられて
家の玄関などに埋められていた。
(この時点では、発見された子供の墓は500基となっていますが、現在は800基以上だということです。)
大人と異なるのは
この“甕”に入れる
ということで
これは子宮を表しているのかもしれないとのことです。
こちらは住居の真ん中に埋められていたそうな。)
YouTubeで見れます!
ガイドの星さん、曰く
『住居の下や玄関に埋めるということは、
いつもお父さんやお母さんや兄弟の声が聞こえるんです。そうすると、この子が早く生まれ変わって来ようという気になる、と。縄文時代の人々は考えていたようです。』
うーむ。
なあるほど、
縄文時代の人々は
ヒンドゥー教や仏教が誕生する遥か以前から
人は生まれ変わるのだと
信じていたのだな…
『死者をめぐる葬送の儀礼は、生者の精神のありようを反映している。他界観念の成立は、この世とあの世を包括的にとらえるという、精神の広がりをもたらした。縄文人はすでに死者に花を捧げるという優しい心を持っていた。』
すごいわ
縄文人…
続く。