6月22日
またしても
山羊にひかれて
大鹿村まで行っちゃった話の続きです。
『中央構造線博物館』
大鹿村のこの施設に行くというのは
かなりな好きモノなのだろうなあ。
しかも、
16時30分までしかやっていないのに
すべり込んだのは
16:23!
こんな迷惑な客人っているかいな。
すみませーん、
と、わたしは図々しく声をかける。
もう、ちょっとでも見れたらラッキー!
てな感じ。
だけどさあ
きっと、断られるよねえ、
常識的に考えても…。
わたしは、昔の新聞の勧誘のように、
ドアを閉められそうになったら、フトモモを挟む覚悟で突入した!
(ホントよ!)
すると、
中にいたのは
上品な紳士的なおじさまで、
うーん、もう終わりなんですが…
と言いながら
どちらからお越しですか?
とお尋ねになったのね。
ええええ?
そう来ましたか?
『富士山です!』
すると、そのおじさまは
いきなり目の色が輝き
『どうぞお入りください』となった。
なんなの?
富士山はやはり遠くで
よくぞいらっしゃいました、てな感じなのだろうか?
それにしても
かなり失礼なわたしたち。
にもかかわらず
おじさまは、
富士山ですか!では
と言って
いきなり
地球の話から始めたのです。
うろ覚えでごめんなさい。
目ウロコの話としては
マントルは
流動する、個体。
マグマは、液体。
プレートは、マントルと同じものだけど、
存在する形態が異なるもの。
地殻は
マントルと同じものだけど、
存在する形態が異なるもの、
だったかな?
単純に、卵のように
黄身、白身、殻
という分類ではないらしいこと。
マントル=マグマ
だけど、状態が異なる。
マントル=プレート
だけど、状態が異なる。
マントル=地殻
だけど、状態が異なる。
状態とは
そこに不純物(水など)が入り込んでくるのか、
あるいは、宇宙に冷やされて?
(このおじさまは、大気と言わず、宇宙に冷やされると言った!)
(温度の違い)
ここまでで
30分。
えええ?
まだ、中央構造線の話まで行かないの?
わたしは不安になった。
だけど、
おじさまは淡々とお話しになられます。
この方は、ナニモノなのだろうか?
この大鹿村を有する
中央構造線の模型あり。
ただの断層の違い。
わかりやすく
スポンジで説明してくださいます。
『断層』
異なる地層の境を
『構造線』と呼ぶのです。
(ココ、大切です。)
『活断層』は
また、別よ。
ただの『断層』は、いわば古傷です。
『活断層』は
生きている断層です。
な、な、な、
なあるほど!
中央構造線はね
恐竜が地球を闊歩していた時代にできたんだよ。
圧巻!なのは…
左のピンク色は
伊那山地、
右のグリーンは
赤石山地。
ピンクが地底から湧き出した
花崗岩やマイロナイト (変成岩)
で
緑が石灰岩がカンラン石などの
いわゆる『堆積岩)からなる
付加体。
(ここ、重要なのだけど
今度またゆっくりね!)
立体地図あり。
分杭峠も
この構造線に
収まってしまいます。
おじさまにお礼を言って
こちらを後にいたします。
山梨に戻るのは
やはり、152号線をクネクネとまいります。
そうして
杖突峠。
諏訪の盆地が見渡せました。
富士山に戻ったのは
夜半の10時過ぎでした。
後日談
その一
家に帰ってから
わたしたち二人は
この日偶然にも
あの『おじさま』が
とんでもない方だったことに気がついたのです。
そうだったの〜〜!
なんでも
河本さんがこの博物館にいらっしゃるのは
月に6回しかなく、
しかも、お忙しいので、この方に講義していただくには
予約が必要、とのことでした。
白抜きの日が
学芸員(河本氏)がいらっしゃる日!
なんとこの日は
“たまたま”
いらしていた6月22日だったのですね〜〜!
しかも、閉館7分前に行ってしまい
それなのに、1時間以上もレクチャーして頂き
ほんとうにありがとうございました!
この方
ほんとうにステキですよ。
今度は予約させて頂きますね。
『氏名:河本和朗
1951年、東京、大森に生まれる。大森貝塚は、われわれ子供が掘りつくして貝殻一枚残っていない。両親は山陰出身。育った場所は池上。日蓮上人が亡くなった場所から250m。お寺の裏山で崖のぼりをして育つ(いま思えば下末吉面の段丘崖だったらしい)。18~19才ごろは、1ヶ月に1回は山登りに行く。おもな行き先は八ヶ岳と南アルプス北部。1971年北海道大学理類入学。しかし進路も決めぬまま中退。1976年アメリカへ渡る。ウィスコンシン、カリフォルニア、コロラドに住む。北アメリカ先住民に会い、「石は地球の長老」であることを学ぶ。1981年、日本に戻る。1984年から大鹿村に住む。1990年ごろから松島信幸先生の地質講座に通う。1992年から松島先生の助手として大鹿村中央構造線博物館の標本集めや準備作業に従事。1993年8月の開館から常駐職員。2001年3月放送大学卒業。卒業研究は早稲田大学高木先生の指導を受ける。2002年学芸員資格取得。2003年、大鹿村中央構造線博物館が国の博物館法にもとづく登録博物館になる。日本地質学会、日本活断層学会,日本地震学会,地学団体研究会会員。』
1951年、東京、大森に生まれる。大森貝塚は、われわれ子供が掘りつくして貝殻一枚残っていない。両親は山陰出身。育った場所は池上。日蓮上人が亡くなった場所から250m。お寺の裏山で崖のぼりをして育つ(いま思えば下末吉面の段丘崖だったらしい)。18~19才ごろは、1ヶ月に1回は山登りに行く。おもな行き先は八ヶ岳と南アルプス北部。1971年北海道大学理類入学。しかし進路も決めぬまま中退。1976年アメリカへ渡る。ウィスコンシン、カリフォルニア、コロラドに住む。北アメリカ先住民に会い、「石は地球の長老」であることを学ぶ。1981年、日本に戻る。1984年から大鹿村に住む。1990年ごろから松島信幸先生の地質講座に通う。1992年から松島先生の助手として大鹿村中央構造線博物館の標本集めや準備作業に従事。1993年8月の開館から常駐職員。2001年3月放送大学卒業。卒業研究は早稲田大学高木先生の指導を受ける。2002年学芸員資格取得。2003年、大鹿村中央構造線博物館が国の博物館法にもとづく登録博物館になる。日本地質学会、日本活断層学会,日本地震学会,地学団体研究会会員。』