5月10日のお話の
ほんとにラストです。
沼津にも、要石があるんですよ!
旧東海道沿いに。
そう、リリーさんが言ったので、
これはもう、行くっきゃないでしょ〜〜。
今年になって
この千本松原と旧東海道を
どんだけ通ったか!
古びた祠や石碑が並び
うわうわっ!アレなに?
と叫びながら
ついぞ、車から降りることは出来なかった。
リリーさんが連れて行ってくれたのが…
振り返ると…
『要石神社』!
看板の字は、もう不明瞭だ。
まるで屋敷神のような
石祠あり。
その背後にあるのが…
この矢印の先にある細長い石が
『要石』
ほんの少し見えているこの石は
実は、東海道をまたいで三百メートル先にの
大橋家の井戸まで続いているそうだ。
この石のことがちゃんと掲載されているページがあった!
『大きな安山岩が露出していて、この石よりは高潮が来ないとか、安政の大地震の時は被害が少なかったといわれている。寛永の初め頃(江戸時代17世紀)一本松新田の開拓者大橋五郎左衛門が祀った。
言い伝えによると「要石は地上に顕れたる部分はわずかであるが、地中に隠れたる部分は実に大である。祠より北三町をへだてる、大橋源太郎氏宅地井戸端辺の間に広がった一面の巌石で、太古地中に大鯰が居て数々動きて地震を起こし人畜を害した、依って此の大岩石を彼の鯰の頭上に載せ以て自由に動くことが出来ないようにした。因ってこれを要石という」そうである。要とはもともと扇子の骨をまとめるための金具で、転じて、鯰の動きを押さえるのもまた要であるという意味からこの名がついた。』
言い伝えによると「要石は地上に顕れたる部分はわずかであるが、地中に隠れたる部分は実に大である。祠より北三町をへだてる、大橋源太郎氏宅地井戸端辺の間に広がった一面の巌石で、太古地中に大鯰が居て数々動きて地震を起こし人畜を害した、依って此の大岩石を彼の鯰の頭上に載せ以て自由に動くことが出来ないようにした。因ってこれを要石という」そうである。要とはもともと扇子の骨をまとめるための金具で、転じて、鯰の動きを押さえるのもまた要であるという意味からこの名がついた。』
安山岩だって!
鯰の頭を抑えてるだって!
河口湖では、鵜の島から豊玉姫命が鯰に姿を変えて竜宮に帰ったとされる。
鯰と豊玉姫は、深いつながりがありそうなので、なんだか気になるなあ。)
安政の大地震の際の津波も
この石までしか来なかったとのことで、
今日まで、地域の人々から大切に祀られているのが感じられる。
この先は、海!
青い海!
津波の神を祀る大瀬崎や
淡島のピラミッドが一望だ。
三保ノ松原?
ここは、アカウミガメの産卵地なのだそう。
さて、
千本松原の中でも
このあたりの地名は
『一本松』というのね。
桃、もも、百、
それでつながってた3人が
最後のゴールは
千本松原の一本松、だなんて。
全く、出来すぎています。
さとちゃん
リリーさん
ありがとうございました!
また、お会いしましょうね。
『アシタカ 水と巨石の山』
〈完〉