今年、
2017年は
平安時代の数少ない噴火の記録と対象的に、
富士山の最後の噴火から
310年。
西暦1707年、
宝永四年の11月23日に
それは起きた。
富士山は黙していた。
しかし、18世紀の日本は
相次いで、天変地異が繰り返されたのだ。
◯元禄地震
元禄16年、11月23日
(西暦1703年 12月31日)
◯宝永地震
宝永4年、10月4日
そして、その49日後に
◯富士山噴火。(宝永の大噴火)
宝永4年、11月23日
(西暦1707年 12月16日)
(あれれ?
元禄地震と、宝永噴火が、
四年の時を経て、
11月23日
同じ日なんだな。
もっとも、どちらも陰暦だけど。)
それから、310年.
富士は静まっている。
平安時代の数少ない噴火の記録と対象的に、
江戸時代のこの噴火の記憶は、
数多くあり
それが、この先の防災対策に
役立っているみたい。
よく登場するのが、
このCG画像。
この様子は観測されたらしく、
ここ!
ここから黒い噴煙の柱が上がったそうで、
忍野村の人々は、山を越えて
富士吉田の小明見に逃げようとしたらしい。
その様子が
文献として、残っていたりする。
山中湖村には
スコリア(火山礫)が降り注ぎ、
村人たちは、忍野村に逃げ、
実際には火山灰も降らなかった
忍野村の村人が、
山を越えて小明見に逃げようとしたのは
それだけ、鳴動、地震などが、
異常に続いていたかららしい。
今、
忍野村の住民は
このときの子孫であるのだろう。
そう思うと、
宝永噴火も、身近に感じられてくる。
最後の噴火
宝永4年11月23日
改めて
昨日の火口を思う。
ダイナミズム。
ありゃありゃ〜
一昨年の今日、
やはり宝永火口へ行ったんでした。
そのときのブログ
十一月二十三日富士山山焼け
この宝永噴火に関しては
今までの噴火と全く違うメカニズムが存在したらしい。
次は
そんなお話です。