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日の丸の日 その二 『“御所”の 五輪塔』

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復活のキリストとマグダラのマリアにお会いしたのち


この日
わたしたちは
山中湖村にある
御所』を目指していた。

そんな字(あざ)があることを
そして、そこに
鎌倉時代のものだという
五輪塔が三基あることを
わたしは最近図書館で借りた
山中湖の史話と伝説
(山中湖村教育委員会 発行)
で、初めてその存在を知った。

しかし
ルカちゃんはすでに知っていた。
そして、いつものように
『なんだか、気になっちゃって…』
昨年の9月9日の日に
Aちゃんと、立ち寄ったのだという。

“まるく”のところを入っていくのよね、
くくりの日でしょう?笑っちゃったよねえ!

そういえば
その時の画像を送ってくれた記憶あり。


そして、この日
ほんとうだ!


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まるく
という器やさんのお隣に

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それは存在するのだ。


先ほどは
◯十でしょ。

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なにか、おかしいね…。



さて
このお隣が

山中湖村山中
字“御所”にある
高村次郎さん宅の敷地内にある
(また、高村さんだ‼)
三基の五輪塔。

山中殿の墓だと伝えられる。

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三基のうち、右側の一基は崩落している。
でも、まわりの調度品などが新しいためか
それほど古いものには思えない。
だけど、調査が行われており

鎌倉時代のものであろうとの推測がされていて…


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立派な説明看板あり。

『甲斐国誌に〈五輪の古塔三基立てり
相伝えて、山中殿の墓という〉
村では、山中太郎左衛門(明応三年(1494年))三月二十六日合戦があり打死)の墓と伝えられる』

と、あり。

山中太郎左衛門…⁈

山中殿とは、何者なんだろう‼


先に紹介した
『山中湖村の史話と伝説』には
この五輪塔を昭和四十五年に発掘調査をした結果が書かれていて

古壺には灰のみ
一つの壺には白骨があった。
そのほか、弥生式土器(⁉)や
ヨロイカブトの一部が発見されたが、
旧のごとく埋め戻した。

とある。

そして
このあとの文に
わたしは引きつけられた!

『神代のころ、神々の産殿のあった所に南北朝時代に宮方の隠れ御殿が設けられた。』

これって、
これって
(神代のころ…)

宮下文書に出てくる
富士王朝のことじゃないの‼

さらに続きを読むと

『延元三年(1338年)、宮下右近亮高、秘密御殿を宇津湖(山中湖)上端、黒木立(ハリモミ林)の中に細き道を作り(中略)これを山中の宮と称す。
この御殿のあった所が、現在 諏訪神社、浅間神社の社地と湖畔よりの域に御所があったのである。』

山中湖村教育委員会の発行した本に
堂々と
こんなことが書かれているのだ。

そして

山中殿とは…

長慶天皇や親方の隠れ宮である山中御所の衛士に、山中太郎、二郎、三郎の三士が居り、五輪の塔はその墓であると伝えられている。』

でた‼

ところで
この御所、という場所の
古い地図あり。

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現在は
御所であった場所の真ん中を
戦後にGHQが道を作ったため
分断されてしまった。


現在の138号線である。

それによって
山中諏訪神社と
山中浅間神社は
別れてしまい
今では赤い橋を渡らないと
双方へ行けなくなっている。


(なんだか、これも意味深だ。)

そして、この御所内にある、古い塚からは
十六菊花紋のついた香炉が発見されている、という。

うーむ。


しばらく
この“御所”内を
三人で探索することにした。

すると
やはり、色々なものを
見つけてしまうのです。


続きます。


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