天皇家に伝わる
『三種の神器』なるものがあります。
今回は
その話を。
『三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのしんき(じんぎ、しんぎ))は、日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊が天照大神から授けられたという鏡・玉・剣のこと。また、神話に登場した神器と同一とされる、あるいはそれになぞらえられる、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物のこと。
三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣を指す。皇族はもとより天皇でさえもその実見はなされておらず、多くの面が謎に包まれている。』
さてさて
また、南北朝時代の話になります。
わたしもまったく興味の無かった
日本史のまたしてもこの時代、
同じく、興味の無い方も
お付き合い願えれば、と思います。
万世一系の天皇家
といわれていても
実は、ふたりの天皇が立った時代があったこと、
皇室の汚点となるのかもしれません。
もともとは兄弟で別れ
交代で皇位継承をしていた
阿野廉子(あのれんし)
彼女は持明院統と
大覚寺統。
第二皇子であった後醍醐天皇は
ひょんことから皇太子となり
やがて、天皇へと。
しかし
彼の野望とは…
武士の世から
再び天皇の世に戻すこと、
そして
二つに別れた皇位を継ぐ二つの天皇家を
自分の子孫に統一したかった。
彼ひとりの思いではなく
そこには女性の影…
そう
後醍醐天皇に寵愛された后
阿野廉子(あのれんし)
三種の神器を隠しておくように、
と
提言したという記録かあるらしいのです。
だとしたら…
すごく長いのだけど
コピペしますね。
阿野廉子(あのれんし)
「牝鶏(ひんけい)の晨(あした)するは、家の尽くる相なり」(書経(しょきょう))という中国の警句がある。女性が権勢をふるうと、家や国が滅ぶというのである。日本の歴史で、政治に口出しした女性として悪評高い一人が、後醍醐天皇の寵妃(ちょうひ)・阿野廉子(あのれんし)である。それほどの悪女だったのだろうか。
廉子は中級貴族の阿野家に生まれた。元応元(1319)年に政界の実力者、西園寺実兼(さねかね)の娘、禧子(きし)が後醍醐天皇の中宮に立てられたおり、お付きの女官として宮中に入った。
やがて、廉子は天皇に見初められる。美貌に加え、「口先が巧みで、天皇が喜ぶことを言う機知があった」(太平記)からだ。寵愛(ちょうあい)は深まり、3人の皇子の母となった。
後醍醐天皇は、政治刷新への強い意欲を持っていたことでしられる。2つの皇統(持明院統、大覚寺統)の天皇が、鎌倉幕府の意向に従って短期間で交代していた慣行にも、不満を抱いていた。
元亨(げんこう)元(1321)年、父・後宇多上皇の同意を得て院政をとどめ、親政に乗り出した。3年後には武力で幕府を倒す企てが露見し、重臣らが流罪になっている(正中(しょうちゅう)の変)。
それでも、天皇は諦めなかった。元弘元(1331)年、今度は笠置山に籠もって決起した。しかし失敗して捕らえられ、翌年、隠岐島に配流となる。このとき、廉子が数少ないお付きとして同道している。
2度にわたる倒幕の動きは、確かな波紋となって広がった。源氏の名門・足利尊氏が立ち上がり、ついに幕府は滅亡、建武新政がスタートした。廉子は「准三后(じゅさんごう)」(皇后などに準じる地位)に任じられるなど、厚く遇された。
ところが、新政権は「公家一統」の方針を掲げ、功績のあった武士に冷たかった。廉子が評定や恩賞などに容喙(ようかい)したことも評判を悪くした。建武3(1336)年、不満を持つ武士に担がれて尊氏が反旗を飜した。後醍醐天皇は京を追われ、吉野に逃げ込まざるを得なくなった。南北朝の分立である。
それから3年後、天皇は吉野の地で波乱の生涯を閉じた。廉子の生んだ義良(のりよし)親王が位を継ぎ、後村上天皇となった。しかし、いまだ12歳。廉子が北畠親房とともに後見した。
廉子はそれから20年を生き、新待賢門院(しんたいけんもんいん)という女院号を受けて延文4(1359)年に亡くなった。彼女に厳しい『太平記』も「百官みな椒房(しゅくぼう)(皇太后の宮殿)の月に涙を落とした」と悲しみを伝えている。
後醍醐天皇の没後
20年も生きたとされています。
そして、
阿野廉子の墓所は
なんと、なんと
楠木正成の首塚のある
あの、
観心寺???
また、降り出しにもどる?
後醍醐天皇と阿野廉子は
三種の神器を
ほんとうに隠してしまったのだろうか?
だとしたら
それは今、
いずこへ…。