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Channel: トヨタマヒメ富士日記
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節分 『再び“シオンの山”へ』0203

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『塩の山』
塩山の名の元となる
この山は
長野にある『皆神山』に風貌がそっくりだ。

山頂に
『君が代』の元となった
古今和歌集の和歌の石碑があり
驚いたのは
やはり、4.5年前だったかしら?

「しほの山差出の磯にすむ千鳥
君が御代をば八千代とぞなく」



2013年2月28日の記事でした。

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ね⁉
変でしょう?
この、塩の山。(右下の黒い山)

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2017年2月3日のこの日は

大石山
石森山
ときて

塩の山へ
節分の旅は続くのだけど
四年前に、こちらの山頂でこちらの石碑を発見して
びっくりしたのは記憶に新しい。


過去記事を読んでいたら
この日とその日は
まったく同じルートをたどったことに気がついた。

もっとも
富士五湖地方から行けば
同じルートとなるのは
当たり前なのかもしれないけど。

『向嶽寺』
というお寺さんの前を、右折するのだ。

そんな寺は、有名ではない、と
どなたもスルーするかもしれない。

だけど
節分のわたしたちは
“向嶽寺”を無視できなかった。

それは
あの
『大塔宮護良親王』の古蹟のある
下吉田の『小室浅間神社』の
すぐそばにある
曰く付きの『月光寺』との
深い、深い
因縁にあるのだから。


向嶽寺と月江寺

『称光院は臨済宗寺院として月江庵と改め、向嶽寺に属し富士北麓における拠点として富士道者に旅宿と神符を提供する御師的役割を果たした。なお、『甲斐国社記・寺記』では日本武尊以来の霊場であったとする伝承を伝えつつ、再興を室町時代の応永2年(1395年)であるとしており、富士北麓の年代記である『勝山記』では、戦国期の享禄2年(1529年)に月江寺住職が向嶽寺の輪番を務めた記録を記している。』



前回は、そのとなりの
神社の鳥居の前の駐車場に車を停めて
わたしはその神社
友人は、向嶽寺に行ったんではなかったっけ?

そうそう
あの

鳥居の前に車を停めてね。

今回もそうしよう。
四年前のことはほとんど忘れていた。

神社からお参り。

すると
すると…


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ええええええ〜!

『秋葉神社』!

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そのとき…

『正解〜〜〜!』
とでも言うように


強い風が吹いた!

ご神紋

天狗の葉団扇‼




もう、
あまりの偶然に
目が白黒…。

それから気を取り直して
『向嶽寺』へ。


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ほんとうに
立派な寺院だ。


なのに
この日は
人っ子一人いない。

朝からずっとそうだった。

他の神社では
例えば、わが忍野村の二つの浅間神社でも

豆まきをするって有線で朝から流していたっけ。


なんだか、また
不思議の国に迷い込んだみたい。


すると
この“向嶽寺”を調べてみたら

またしても
南朝のことが!


『同所の不便のため弟子の宝珠寺(山梨市の)の住持・松嶺昌秀(しゅうれいしょうしゅう)が周旋し、1380年(康暦2年)正月20日に甲斐国守護武田信成から寄進された塩ノ山へ移り、向嶽庵と号した。信成は絵図を作成して寺領を確定し、本尊の釈迦如来像を寄進したという。また、抜隊の死後に供養を行っている。「嶽」は富士山を意味し、抜隊がかつて霊夢を見たことに因む。

南朝方との関わりが深く、後亀山天皇の勅願寺となったという。武田氏の保護もあり多くの塔頭・末寺を有した。』

いったい

どうなってるんだ〜!









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