あわただしい。
しかし
あわただしくない
年の瀬など、あるのだろうか。
ほかの方たちは
どのように過ごしているのだろうか。
子供のころを思い出す。
夏休みの宿題を
結局は、最後の数日で仕上げるように
最後は、バタバタになる。
大人になってもそうだった。
会社をやっていたときは
決算日の一週間前になると
ほぼ、徹夜になったように
わたしの人生は、いつも
ギリギリで、あわただしい。
ポニョや、イルカのフリッパー(古っ!)に変わる。
12月27日、
午前中は
またまた
大塔宮さまの件で
W夫妻の御宅に
フジザクラのメンバー、四名でお邪魔する。
聞きたいことが、山のようにあり
まだまだ
わたしの中で、完結しないのだ。
大塔宮護良親王と、
雛鶴姫の伝説の場所は幾つかあり
それは、他の様々な伝説も同じなのだけど
それぞれが、それらしく主張している。
それはそれで
決着がつかなくても
いいではないか、と思いがちだけど
『宮さま愛』があくまでも中心となっているこのご夫婦にとっては
真実は、ひとつしかない、のだ、と
今日は思った。
秋山村の 雛鶴神社
と
都留市 朝日曽雌の 雛鶴神社。
W氏が取り出したのは
文化三年(1806年)
ふたつの雛鶴神社のうち
どちらに、姫は眠っているのか…。
W氏が取り出したのは
ふたつの『雛鶴神社』のある場所の
古い地図だった。
文化三年(1806年)
というから
今から二百年くらい前の
墓石のようなものが描かれている。
秋山村
現在、秋山村の雛鶴神社のある場所には
なにもないのだけど
(むしょうの、という文字が見て取れる)
同じ、文化三年(1806年)
もう一つの雛鶴神社
都留市の朝日曽雌の地図には…
この地図は、東西が秋山村のものと
逆になっているので
東と西を同方向に合わせる、
つまり、朝日曽雌の地図を逆さにしてみると
この道はこのようにつながっており
この左右の間には山があり
『雛鶴峠』と名付けられている。
ここに、ふたつの雛鶴神社の
おおよその位置を記すと
つまり
雛鶴姫は
雛鶴峠を
越えたのか
越えなかったのか。
W氏は推測する。
『秋山村の雛鶴神社は、少なくとも
1806年以降に作られたものである。
それは、雛鶴姫が亡くなってから、五百年経っており、おそらく、この地方の伝説に基づいて建てられたものだろう。』
雛鶴姫を最後までお守りしていた
ふたりの護衛
宗忠と小太郎は
雛鶴姫が亡くなったあと、
その場所で殉死しているという。
そして、
朝日曽雌の雛鶴神社の参道前には
その殉死者の墓があるのだという。
あ、
そこ、通りました!
なんだか、明るい感じがして
そこだけ、光が当たってた!
と
Aちゃん。
思えば
この流れは
10月2日に
Aちゃんが、都留市の雛鶴神社に行ったことから始まったのではないのか。
その後、なんだかすごい展開になったものだ。
Aちゃんは、不思議なご夫婦にその神社で出会い
ご縁があるようなのでW氏のブログを読むと良い、と勧められ
わたしもそのブログの読者になり
ついには
大塔宮の月命日に
鎌倉宮にご一緒させて頂き…
そしてまた今日も
年末のあわただしい時間を
こうして割いていただいている。
なんで?
なぜなんだろう?
この方たちとおしゃべりしていると
ほんとうに
3時間があっという間にすぎて行く。
このご夫婦
(W夫妻)の
宮さまへの愛と
真実の探求への情熱には
真摯に頭が下がります。
このあと、時間ある?
と
W氏。
都留市の雛鶴神社に
連れていってくれるという流れになったのだ。
だけど…
わたしは、家に残してきた
生後二ヶ月の仔犬が心配になった。
ごめんなさい。
次の機会に
連れていっていただくことになった。
それは
新しい年
2017年
丁酉(ひのととり)の初頭になるのだろう。
Wさま
このご縁に感謝です。
そして、
チーム・フジザクラのメンバーも
一緒でなければ
わたしひとりでは
きっとここまで来れなかった。
ほんとうに
ありがとうございます。
家に帰れば
ももが
平塚の保護者が買ってくださった
おもちゃの首を
取ってしまっていた。
また、首かい‼
小さな怪獣
もも。
仔犬と触れ合うのは
14年ぶり。
トイレの躾
甘噛みの躾
14年前は母犬がすべてやってくれたから
手がかからなかったのだ。
今回は、わたしがしなくてはいけないことが山のようにあって
老犬介護であたふたしていた去年の年末よりも
むしろ、多忙になってしまった。
こんな風にして
やはり
バタバタと
2016年は暮れて行く。