何から書いて良いものか…。
頭の整理がつかないのだけど、
昨日起きたことは
またまた、“因縁”の、てんこ盛りだった。
シンクロ、
と言わずに
因縁、という言葉をあえて使ったのは
これは別にシンクロ二シティ(共時性)でも何でもなくて
因と縁、という
けっこうネガティブに捉えられてしまうこの言葉の本来の意味が
昨日から今日にかけて起きたことを
表現するに、相応しいと感じたからだ。
昨日は、富士山北麓で活動する
環境保全活動仲間の忘年会。
気のおけないメンバーが10名ほど集まって、楽しく呑み食いしましょう、いうわけだ。
場所は、富士吉田、ということしか
わたしは知らされていなかった。
幹事のTちゃんの自宅の近くの気の利いた店で行い
その晩はお泊まり。
どこに泊まるのかも知らなかった。
16時、富士山駅。
待ち合わせはずいぶんと早い。
なぜその時間なのかも、あえて聞かなかった。
それは、後から聞けば
宿泊する場所がお店の近くの民泊で、
そこに入れるのか16時からとのことで、早めに行こうという単純な理由だったらしい。
富士山駅にギリギリで滑り込むと
事務局長のT氏がすでに待っていてくれて
、これから宿泊施設の駐車場に案内してくれるという。
先導してもらってそのまま ただついていくと、
本町通りを左折して、月江寺の前を通り過ぎた。
ゲッ!
月江寺‼
今月に入り、
ボチボチ大掃除準備をしていたら、
その日の昼間、聖徳太子と富士山に関する書物のコピーが出てきて、
手を休めて、読んでしまったのだ。
(だから、大掃除は一向に進まない…)
それによると
『厩戸皇子(のちの聖徳太子)が西暦五八九年に富士山北麓の家基都(かきつ、現在の富士吉田)に来て、神代から伝来の神社を復興し、白蓮寺を建立した。』とあった。
白蓮寺って、どこ?
注(白蓮寺 市内 高座山の西簏。伝統は当市内の月江寺が受け継いでいる。但し太子の自画像は、市内の福源寺にある。)
とあったので
月江寺かあ…
それに、福源寺に太子の自画像???
(福源寺には、徐福の『鶴塚』もあるんだ。どうなってるの?
徐福は、死後、鶴となって飛んでいったとの伝説あり。)
車は、月江寺を通り過ぎて、
三分ほどで目的地に着いた。
『聖徳太子』
『徐福』
このふたりは、この下吉田という土地に
めちゃんこ足跡を残しているようだ。
なにしろ、アヤシイ雰囲気が漂う。
しかもね
あの、倭文神社(織物と星の神)も、歩いて五分圏内にあるんじゃないかしら?
うーん。
車を停めたスペースは
入り組んでいて土地勘が働かない
初めて通るような道筋に思えた。
なにしろ、この下吉田は
一通も多い上に複雑で
何度来ても覚えられない。
忘年会は何時からなの?
そう訪ねたら
18時からだという。
それがね、16時に入れるってことで(宿泊施設に)早めの待ち合わせにしたんだけどさ、さっき電話があって、17時になっちゃうって。
だから、時間潰さなくちゃ。
ええええ!
そうなの〜?
その一時間の待ち時間が
完全に、そのための時間だったとは!
あそこ、言ってみようか。
行ったことある?
と、赤い鳥居を指指すM子さん。
えええ?
まさかまさか、福知八幡?
(そこは、聖徳太子と徐福に関連ある神社だ)
土地勘のないわたしはそう思ったのだけど
ううん、浅間神社だよ、
え?
馬がいるのよ。
ええええ???
そこは
“下浅間”と言われる
富士小室浅間神社!!!
なんと、
宿泊施設(民泊)は
そこから徒歩三分の距離にあった。
16時に待ち合わせをしなければ
また、宿泊施設のSさんが
17時に延ばさなければ
この時間はなかった。
神馬トキン。
記事にしたのは
2014年、9月の始めだった。
その後、われらのお仲間のTちゃんが
市からの依頼で、この馬の世話を
今日までしている。
これも、何という因縁なのか。
いやいや
それどころじゃないぞ。
今から一ヶ月前に起きたこと。
その話を、書こう書こうとして
まだ書けていないこと。
ここに書いてある
『午前中に大きなことがあったんだけど、後ほど…』という
そのことが
未だに書けていないことで。
(午後の話だけを書いてるのだけど、
この11月11日の午後、富士山五合五尺に行ったのは、聖徳太子と黒駒の碑が目的だったんだ!
これも笑っちゃうような、因縁‼)
この日の午前中に
とある方に
このお話を聞きに行ったのだった。
第一皇子
『護良親王之古蹟』
小室浅間神社の本殿の右脇に…。
ああ、
早く書きなさい、ということだろうな。
11月11日に起きたこと。
一ヶ月後の
12月11日。
ここまで引っ張って
護良親王さま
申し訳ありません。
書かせて頂きますね。
(2014年9月4日の記事。
この時も、トキンと護良親王さまは
セットでした。)