昨日の記事
『あのお不動さまは伊豆からいらした!』
の記事は
わたしの勘違いが及ぼしたもので
先ほど
削除させて頂きました。
調べたところ
東円寺に現在いらっしゃる
目黄不動尊は
以前は『富士山一合目鈴原大日堂』におわしましたが
それ以前は江戸からいらしていた、ということです。
早とちりして
申し訳ありませんでした。
『東円寺には、明治11年3月に書かれた不動尊永代護摩連名簿が残っています。前文には、不動尊は昔、江戸の某が富士山一合目の鈴原に安置されたもので、そのことは多くの人の知るところである。明治の(廃仏毀釈の)ため山から降ろされ、上吉田(富士吉田)の稲田氏、小佐野氏、持田氏三名がお堂を建てて祀っていました。ある日、稲田氏はこの不動像が「私は、忍草山(東円寺)に移りたい」と云う不思議な夢を見ました。驚いて他の二人にも話したところ、他の二人も同じ夢を見たと言います。そこで昨年(明治10年か)不動尊を東円寺に安置した。と書かれています。』
と、
東円寺のHPに明記されていました。
では
わたしは何故、
このお不動さまが伊豆の走り湯から来たものと
早とちりしてしまったのでしょうか?
答えはここにありました。
〔北面の修験拠点としての御室〕
<富士山(『山梨県の地名』「日本歴史地名大系」19)>
『梁塵秘抄』「巻二霊験所歌」には、
「四方の霊験所は、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯書の大山、丹後の成相とか。土佐の室生門、讃岐の志度の道場とこそ聞け」
の歌があり、霊験著しい寺杜、修験の道場の一として、伊豆山権現(現静岡県熱海市)とともに富士山があげられている。
平安末期には浅問神の信仰に修験道が習合して、富士山が霊験所の一として広く知られていたことを示す。
富士修験の信仰拠点は南口の駿河の村山であるが、北面の二合目、御室浅問神社が鎮座する、御室の地も山内の信仰拠点として整備されたようである。
1)文治5年(1189)7月28日、日本武尊(ヤマトタケル)像が造られ、この地に納められた。背面の刻銘(甲斐国志)には
「奉造立勧進走湯山住金剛仏子覚実覚台坊二十度仏子興福寺運珍円浄作」
とある。高さ3尺2寸5分、髪は左に垂れて左腋に入り、右手は欠損していて、容貌は不動尊に似ていた。
<富士山(『山梨県の地名』「日本歴史地名大系」19)>
『梁塵秘抄』「巻二霊験所歌」には、
「四方の霊験所は、伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯書の大山、丹後の成相とか。土佐の室生門、讃岐の志度の道場とこそ聞け」
の歌があり、霊験著しい寺杜、修験の道場の一として、伊豆山権現(現静岡県熱海市)とともに富士山があげられている。
平安末期には浅問神の信仰に修験道が習合して、富士山が霊験所の一として広く知られていたことを示す。
富士修験の信仰拠点は南口の駿河の村山であるが、北面の二合目、御室浅問神社が鎮座する、御室の地も山内の信仰拠点として整備されたようである。
1)文治5年(1189)7月28日、日本武尊(ヤマトタケル)像が造られ、この地に納められた。背面の刻銘(甲斐国志)には
「奉造立勧進走湯山住金剛仏子覚実覚台坊二十度仏子興福寺運珍円浄作」
とある。高さ3尺2寸5分、髪は左に垂れて左腋に入り、右手は欠損していて、容貌は不動尊に似ていた。
つまりは
富士山吉田口登山道一合目のお不動さまは
江戸時代に江戸のどなたかが奉納して
現在は忍野村忍草の東円寺へ
富士山吉田口二合目の御室浅間神社に
ヤマトタケルの神像を奉納したのは
『伊豆走湯山の覚台坊』であるが、容貌は
不動尊に似ていた。(現在は行方不明)
ということらしいです。
紛らわしいわたしの早とちりで
大変ご迷惑をおかけしたこと
心より
お詫び申し上げます。
しかし
わたしの伊豆山神社
また、走湯山への興味は
尽きることなく
突っ走っていることも
お伝えしておきます。
きっと
すべてに意味があるのだ、と
信じて!
ありがとうございます。
そして再び
お詫び申し上げます。