この間から
どうも、『扶桑』が気になります。
大きな桑の木から
太陽が登る国
日本の別名ともなったという
この言葉
十の太陽
太陽の中に住むという
三本足の烏…
これは
中国の故事にも
朝鮮半島の古墳にも
描かれているとのこと。
うーん
気になる
気になる。
扶桑の木って
どんな木なんだろう。
画像は無いのかしら?
そんなことで
また検索してみたら
興味深いブログさんに辿りつきました。
―隅田八幡人物画像鏡「銘文」と梁書「扶桑国」―
★和歌山県・紀ノ川のほとりに佇む隅田八幡神社に不思議な古鏡があります。「神功皇后が半島から持ち帰った」との伝承を持ち、明治時代には国宝第一号に認定された「人物画像鏡」(図Ⅰ)です。東王父・西王母などが描かれている「神仙思想鏡」。
★ここに書かれた銘文を巡って様々な論争がありました(図Ⅱ)。先ず「癸未年」では443年(允恭)説と503年(武烈)説がありますが、銘文中の「斯麻(=武寧王)」や「開中費(=河内直)」が6世紀初頭の書紀に実記された人物であることより、503年説が有力です。
★そして「男弟王」を「オホド王」と読んで、書紀では「527年大和入り」とされる継体が既に503年には大和(意柴沙加=忍坂)入りしていたとする福山さんの説が注目されています。
★しかしこれは<記紀益>に反する推理。善玉・継体の大和入りを隠してまで悪玉・武烈の在位を偽装して何の得があるのでしょうか。
★そしてどうしても解明できなかったのが「日十大王」。記紀には、こんな名の大王は登場しません。
★ここで以前に掲載した「梁書・扶桑国」の記事をお読みください。この国は「499年に扶桑国僧・慧深が報告し、520年頃に他の僧が追認した」東夷諸国のひとつですが、時空間がこの銘文と重なります。
★扶桑は中国の神仙思想では「十個の太陽を宿す東方の巨木」で、図Ⅲの馬王堆帛画にも描かれています。
☆東方に理想郷を求めて大和に流移してきた中国文化人がその地を「扶桑国」と名付け、王が「日十(=十個の太陽)大王」を称しても一向に不思議ではないでしょう。「日十」は仮に「ヒソ」と読んでおきます(紀ノ川の上流に「比蘇」の地名あり)。
★私はこの<梁書・扶桑国―十個の太陽―隅田鏡・日十大王>の関係を『扶桑国シンポジウム』(2回)で発表しましたが、これを受けた宝賀寿男さんの論文の一部(『古代史の海』掲載)が図Ⅳです。
★私の説は<大和扶桑国―日十大王>ですが、宝賀さんは更に「『日十』は『フソウ』」と読むべきだ」と言っています。
★そしてこの「日十大王」の文字は、ちょっと工夫すれば「日本天皇」にも化けるのです。
★最後にまた雪野山・内行花文五葉鏡に登場してもらいます(図Ⅴ)。
★大和盆地をシミュレートしたと思われるデザインですが、「十連五芒星」が「十個の太陽」に対応します。そして東向五葉の先端は「養蚕(=桑)族・秦氏」の所領で占められています(その先の黒塚古墳木棺は大桑製でした)。☆大和は「十個の太陽を宿す扶桑樹の茂る東方神仙郷」にふさわしいペンタクロス文化の地ですね。
※「忍坂」は盆地東南の一五芒星に相当します。また「隅田」は河内十環の南を山ひとつ越えた所にあり、紀ノ川を遡ると忍坂の近くに到達します。
★前々回では天照大神のご神体候補・内行花文八葉鏡を「拒否された鏡」と記しましたが、「一個の太陽・天照大神」一神専制思想では「十個の太陽・八百万神」多神共立思想には合わなかったことでしょう。
※ちなみに四国剣菱結界に関わる「大麻」では「大嘗祭での忌部氏の麁服献上」を書きましたが、<麁服(あらたえ)[麻]>で、天皇制の基層は「古代列島[麻]文化」であり[絹]ではないことが注意です。古代相撲で野見宿祢に負けた当麻蹴速ですが、後の支配関係により創られたものでしょうか。当麻の地は五葉の西南葉に当たります。
※隅田八幡人物画像鏡の資料は日根輝己さんの『謎の画像鏡と紀氏』を参考させていただきました。日根さんは和歌山市在住の「紀氏」研究家で、素晴らしい著作が数々あります。
★人物画像鏡にはまだ沢山の「日本史の謎を解く鍵」が隠されていますが、それはまた別の機会に。
★「大和地方は神武以来『倭国(日本)』の中心だった」と主張する記紀にとっては、「扶桑国」などは実に都合の悪い事柄だったことでしょう。ために武烈は「史上最悪の天皇」として「始末」されます。
☆「倭で化けた鏡」には、その「化け方」に日本の古代思想を探る示唆が数多含まれていますが、今回はとりあえずこの辺で。
(転載終わり)
十の太陽
三本足烏
でも
わたしが一番気になるのは
大きく広がった桑の木
そこから太陽が登る
東の国。
日十大王。
それは
どなたの比喩なのだろう。
また
調べてみましょう。