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『たまのみづ』がつなぐもの その三

多摩川と玉川?

これは、音ありきだな、
直感で思う。
徳川家康がこの地に都を造る以前に
その川の名はあったのだろう。

火山をアサマとアイヌ語でいうがごとく
『ま』は、流れる何かを現す言葉ではなかったか?
千曲川は山梨と長野の堺の金峯山に源頭部を持つけれど
それは筑摩と漢字を変え
日本海に注ぐ代表的な河川だ。
球磨川もその音、『くま』に大いなる意味がありそうだ。

たま
ちくま
くま
その川の名の共通項は何なのだろう。
わたしはまたしても
縄文の地霊が
ゆらりと立ち上がるのを感じてしまう。

おっといけない。
玉川上水でしたね。
玉川上水の歴史に関しては
東京都水道局のHPに詳しく載っていた。


天正18(1590)年、徳川家康は江戸入府に先だち、家臣大久保藤五郎に水道の見立てを命じました。藤五郎は小石川(※現在の東京都文京区小石川)に水源を求め、神田方面に通水する「小石川上水」を作り上げられたと伝えられています。 
 江戸の発展に応じて、井の頭池や善福寺池・妙正寺池等の湧水を水源とする「神田上水」が完成したのは寛永6(1629)年頃とされています。一方、江戸の南西部は赤坂溜池を水源として利用していました。
 慶長14(1609)年頃の江戸の人口は約15万人(スペイン人ドン・ロドリゴの見聞録による)でしたが、3代将軍家光のとき参勤交代の制度が確立すると、大名やその家族、家臣が江戸に住むようになり、人口増加に拍車がかかりました。もはや既存の上水だけでは足りなくなり、新しい水道の開発が迫られるようになったのです。
(中略)

 工事は、承応2(1653)年4月4日に着工し、わずか8か月後の11月15日(この年は閏年で6月が2度あるため8か月となります。)、羽村取水口から四谷大木戸までの素掘り(崩れの補強を行わずに掘削すること)による水路が完成しました。全長約43キロメートル、標高差はわずか約92メートルの緩勾配(緩い傾斜)です。羽村からいくつかの段丘を這い上がるようにして武蔵野台地の稜(りょう)線(尾根:谷に挟まれた山頂など高い部分の連なり)に至り、そこから尾根筋を巧みに引き回して四谷大木戸まで到達する、自然流下方式による導水路です。

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