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Channel: トヨタマヒメ富士日記
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卑弥呼の鏡

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今日は

図らずも、昨日紹介した

甲府盆地の北西にある

甲斐風土記の丘に行くことになった。


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たくさんの古墳群の説明を読んでいると

またしても

この名がでてきてしまう。


向山土木卑古

(ムコウヤマ トモヒコ)

これはヤマトタケルの伝説と同じで

土地を開いて平定した王の総称なのだろう。

その名は甲斐国史などにも登場するけれどもっとローカルな

例えば北巨摩郡誌によると

その名は

日向土木卑古(ヒムカ トモヒコ)となっている。


ヤマト政権から来た王たちは

土着の神々を祀り

まだ土器と石器の世界にいたウサベラさんたちを平定したのち

青銅器と馬を携えて

太陽を祀る神事を司ることで

長くこの地を統治したのだろう。

そして土地を開墾し

稲作を伝えた。


卑弥呼の鏡は幾つもあり

卑弥呼は日の御子の総称であったのではないかしら?

それらは大王が死してなお太陽の神事が出来るように

副葬品として埋葬された。


東日本最大級の

銚子塚古墳を今日

久しぶりにまのあたりにして

そんな事に思いをはせてみた。


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本当にでかい!

こんなところから

卑弥呼の鏡だと考えられている物と

同じ鋳型の鏡が発見されたなんて。


やはり

甲斐の国

恐るべし。



山梨県考古学博物館のHPより


甲斐銚子塚古墳が文献に初めて登場するのは『甲斐国志』(江戸時代編纂)です。また、1925(大正14)年の『史蹟名勝天然記念物調査報告』(山梨県)では、大型の前方後円墳であること、石室が存在すること、環濠(周溝)があること、そして多数の埴輪が散在していることなどが記されています。

 

地元では「伊勢塚」とも呼ばれ、伊勢講の信仰の対象として親しまれるとともに、桑畑や梅畑として開墾されていました。1928(昭和3)年に竪穴式石室が発見されたのは、伊勢講の幄舎(あくのや、あくしゃ…儀式や祭祀などの際に設ける仮屋)の建設工事がきっかけでした。古墳の規模に加え、石室の形態(小口積み)そして豊富な出土品から、畿内との結びつきの強い古墳として大いに注目されました。

 

代表的な出土品は三角縁神獣鏡です。戦後の全国的な古墳調査の広がりに伴い、甲斐銚子塚古墳出土の三角縁神獣車馬鏡は、備前車塚古墳(岡山市)や群馬県三本木所在の古墳(藤岡市)そして藤崎遺跡(福岡市)出土鏡と同型の鋳型をもとに作られていたことがわかりました。背面部の年号や全国的な広がりから、卑弥呼の鏡(『魏志』倭人伝、「銅鏡百枚」)と考えられ(※1)、邪馬台国畿内説の有力な根拠となりました。


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