1990年6月30日
ユウヤとわたしは会社を辞めた。
その日はどこでだったかは忘れたけれど
会社が開いてくれた「送別会」が壮大に行なわれて
朝まで飲んで踊って
たくさんの花束をわたしたちはもらった。
それは
新しいステージに明日から向うという
最後の日となった。
そのあとふたりで起業して
それは2002年まで続いた。
この話しを書こうとして思い出しだことがある。
そのきっかり12年後
つまり2002年6月30日
現在の彼とわたしはそのころ経営していたカフェをクローズして
富士山に移住するとして
さよならパーティを自分たちのカフェで開いていた。
そこにはユウヤやミミや
たくさんの懐かしい人たちの顔があった。
午年はわたしは新しいことを始める年だというのは
それだけ重なると
ジンクスのように思えてきた。
2014年6月
わたしは何を終わらせ
何を始めるのだろうか。
1990年にわたしたち
チーフデザイナーのユウヤとチーフプレスのわたしが辞めたのは
クリエイター側と 営業側(経営側)との価値観の相違が原因だった。
「いい物を作りたい。」というクリエイターと
「売れるものを作ってほしい」という経営側。
「良いものは売れるはず、そういう世界にならなくてはいけない」というクリエイターと
「売れるものが良い物だ。社員100人の家族の運命がかかっているのだ。」という経営陣と・・・。
これはまったくの平行線で
混じるわけものない。
ファッションの世界だけではない。
広告の世界、音楽の世界、美術の世界、料理の世界・・
はては出版の世界でも
この確執はいくらでも見られたのだと思う。
ファッションにメッセ-ジ性を付加してしまったユウヤは
正確にいうと彼とわたしは
会社の中で「浮いた」存在となってしまい
結果的に反省会となった「コレクション事後会議」の中で
「メッセージを訴えたいなら
ふたりでやってくれ」と言われてしまったのだ。
わたしたちは覚悟を決めた。
ふたりでやろう。
起業するんだ。
わたしには父の遺産があったし
ユウヤは年齢のわりには高額の退職金がでるはずだった。
「やろう、やろう!」
まったく若いということは怖いものなしだ。
そのころ
目黒で同居していたSは
まったく同じことで悩んでいた。
「クリエイターはいいものを作りたい。
でも会社は売れるものがいいものだという。」
それは本当に、本当によいものを作りたいと思うクリエイターには
辛いことである。
わたしたちが会社をやめて起業したことは
たくさんの他の回りのひとたちに勇気を与えたと思う。
少なくとも、一瞬でも
夢を見ること。
それを皆が共有したのだから。
ある日
京都から帰ってきて
Sが言った。
「会社、辞めようと思うんだけど。」
「いいじゃない?」
わたしは彼、Sに言った。
「会社は辞めるためにあるものだよ。」
その次の日
Sは17年勤めた会社に辞表を出した。
しかし
バブルが音を立てて崩壊するその年に
なんだってこんな大きな変化の波の中に
自ら飛び込んでしまったのだろうか。
わたしたちはなんだって
そんなに怖いもの知らずだったのだろう。
だけど
今考えても
ひとつも後悔していないわたしたちが確かにいる。
それは本当に不思議なことだ。
やはり全ては必然だったんだ。