最後のコレクション
1990年
恵比寿駅の旧恵比寿麦酒の工場跡地で
古いレンガ造りの建物の中
MB秋冬コレクションが行なわれた。
話しはその数年前に遡る。
198X年のファッション界を激震させたあの
TK事件(これは本当に日本アパレル年鑑でそう表記された)
未曾有のヘッドハンティング事件。
TK先生は日本のデザイナーズアパレルの雄
それが大手アパレルメーカーに引き抜かれたのだった。
それは
蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
TK先生のアシスタントだったユウヤも
プレスだったわたしも
その蜂の巣のなかに巻き込まれていたのだった。
誰がついていくだの行かないの
同じ企画室やパターンナーの中でも
疑心暗鬼に陥っていた。
NO1アシスタントは誰なのか?
それは企画室の中でも確執があったようだ。
でも、誰の目からみても
ユウヤが一番可愛がられていた。
のちにTK先生はこう語った。
「ゆうちゃん、来てくれると思ってたんだよ。」
その言葉を聞いて
ユウヤとわたしは泣いた。
泣いた、泣いた、泣いた。
行きたくても行けなかったユウヤ。
絶対行かせたくなかったわたし。
わたしのせいで、その会社に
ユウヤは残ってくれたのだった。
わたしだけではない。
若いアシスタントたちとみんなで
下北沢のユウヤのうちに行って
明日先生に会うんだとうユウヤを引き止めたのだ。
引き止めた以上は
若くしてトコロテン的にチーフデザイナーとなったユウヤを
みなで絶対に盛り上げようという機運があった。
そしてわたしも
TK先生についていった上司の後釜で
若くしてプレスチーフになってしまったので
皆で
この傷を回復させてまたメンズファッションの雄として返り咲こうと
心をひとつにして邁進していくしか道は無かった。
わたしたちに「洋服とは何たるか」を教えてくれた
TK先生を師と仰ぎつつ
それを忘れまい
しかし新しいMBを作らなくてはならない。
ユウヤのMBを。
そのころはがむしゃらで突っ走った。
突っ走った挙句の
その最後のコレクション。
1990年4月。
数年前から
コレクションはメッセージ性が強くなっていった。
1989年のコレクションでは
ユウヤは「アジア人のモデルだけでショーをやりたい」と言い出して
素人モデルを30人も集めた。
そしてそのテーマは
「Untinuclear」すなわち「反核」だった。
広島出身の彼の希望だった。
結果的に最後のコレクションとなった
1990年は
「アースコンシャス(地球意識)」だった。
それをどのように表現するか?
ファッションショーで?
大きな大きなテーマに
わたしたち皆で挑んだ。
何かとてつもなく大きなものに向っていた。