今は考えられないのだけど
あのころは
年に四回は確実に風邪をひいていた。
ことさら飛行機に乗ると
エアコンだの乾燥だので
海外で寝込んでしまうのだった。
ひとりで旅行をしていたころは
人に迷惑をかけるわけでもなく
ホテルで二日や三日寝込んでも
そのぐらいのロスですむけれど
Sとふたりで旅行するようになったら
付き合い始めて最初の3カ月くらいは優しかったSも
「なんでこんな時に風邪をひくんだ!」と
イライラするようになってくる。
まあ、男なんてそんなもので
若くして離婚経験のあるわたしは特別に憤ったりはしない。
「わたし寝てるから好きにしていいよ。」
男はそのシチュレーションに慣れていないのだろう。
結局暗いホテルの部屋でTVなどを見てすごし
(一人で町に繰り出す気がしないのだろうか?
考えてみたら、Sは一人で海外旅行をしたことがなかったのだ)
挙句の果てに寝ているわたしにイライラを募らせるのだ。
北京であのなんという名前だったっけ
ラストエンペラーで知った「紫禁城」だ!
あそこの「拷問の間」を見学したとたんに気持が悪くなった。
次の日の「万里の長城」ツアーに参加したとき
最悪の状態になってしまった。
そんなことを書くとわたしがまるで敏感体質のようだけど
まったくそういうわけではない。
「年四回風邪をひく」は展示会のようなもので
(洋服の展示会は年四回行なわれる。)
わたしの主治医は
「そろそろ来る頃だと思っていたよ」
そういって
いつもの注射をしてくれるのだった。
昆明(クンミン)では二日寝かしてもらって
なんとか普通のものが口にできるようになった。
北京では「死んだものも生き返る」という
怪しい「なんとか丸」というものを買って服用していたのだから。
そこで
大理石とはそこの土地の名をとったという
大理(ターリー)についたころ
その町のうどん屋にまず食事をしに行った。
(雲南ではラーメン屋はない
みなうどん屋なのだ。日本のうどんにそっくりなのだけど
ホイ族という漢字で書けば「回族」つまり回教徒の人々が
うどん屋を営んでいることが多いようだった。そんな店には、ヘジラ歴、つまりイスラム歴のカレンダーがかかっていてすぐわかった。ホイ族のうどん屋はまあまあ美味しかった。)
そこでであったイタリア人旅行者の名前がどうしても思い出せない。
彼と友人の二人組みは
ここでは常識の「マイ箸」で、うどんを食べていた。
エコの理由ではない。
ここでは「B型肝炎」に感染する恐れがあるからだ。
わたしたちも北京で買った「マイ箸」をさっと取り出した。
わたしたちはただち意気投合した。
目的地が「麗江」共通だったからだ。
コミュニケーションはわたしとSの片言の英語で行なったが
このような旅ではさほど不便ではなかった。
次の日に、何と言う名前だったか
耳の形をした湖巡りの遊覧船に乗った。
(詮索したら出てきた。
それはさんずいに耳に海とかいて「ジカイ」という淡水湖だった)
画像もお借りした。懐かしい。
大理で何日か過ごしたのちに、四人で麗江に移動した。
交通機関はバスであったと思う。
そうして
そのイタリア人たちとともに
「異邦人としてその土地を流れる」旅を楽しんだのだった。
イタリア人たちは「マルコ・ポーロ」を誇りに思っていて
乾麺のルーツがこの中国にあり
それを持ち帰りパスタが生まれたことを自慢さえした。
麗江についてからも行動をともにして楽しんでいたが
わたしが風邪をひいていると知り
「ドクター・ホー」のところに行こうという。
なんでも漢方のすごい先生で
どんなものでも治してしまうという。
彼の持っていたイタリア語のガイドブックには
顔写真まで載っていた。
それでそのドクターのところにおとずれた。
ほど広い中庭にたくさんの植物の乾燥したものが所狭しと並べてあり
いわゆる漢方の嫌いではない香りが漂っていた。
そこでわたしは風邪に効く薬を調合してもらい
東京に戻ってからも、それを煎じて飲んでいた。
その香りはわたしにこのドクターと
あの麗江の町並みをいつまでも思い起こさせた。
一つ前の記事で紹介させていただいた
「電網写真館」を読み進むと
この「ドクター・ホー」の話しが出てきたので
あまりにも懐かしく、様々な思いがわきあがってきた。
家のどこかに
このときの写真があるはずだ。
見つかった暁にはぜひお見せしたいとおもう。
(電網写真館 青柳健二さんのブログより転載させていただきました)
玉龍雪山本草診療所の有名人
麗江新市街の毛沢東像の下で商売している貸自転車屋で、私は変速ギヤもあるマウンテンバイクを借りた。
町並を北へ抜けると、玉龍雪山に向かってペダルをこぐ。幸いその日は晴れていて、それほど風も強くなかったので、ぽかぽかと暖かく、山の麓まで続いている一直線の道は舗装されていたし、自転車に乗っているのは気持ちがいいくらいだった。
昔はそもそも貸自転車自体が少なく、ようやく見つけてもそれは、悲しくなるほど重い中華人民共和国製の変速ギアなしの自転車だった。それで強い向かい風の中、砂利道の穏やかな上り坂を延々とこぎつづけなければならなかった。時代の変化は、こんなところにも感じるのである。
10キロほど直進し、道を左に折れる。木造の骨組みに日干しレンガの壁で作ったナシ族の典型的な民家が並ぶ白沙の村に着いた。
村のメインストリートに立つと、ちょうど北の方に雪のない玉龍雪山が見えた。雪がないと気がついてしまうと不思議なもので、その雪がないことが妙に居心地の悪さを感じて仕方がない。地元の人たちが、地震と雪のないことを結び付けるのはわかるように思った。まったく関係がないとはいえないのだ。両者とも、めったにないという意味で。
自転車でさらに北へ走ると、めざす診療所が左側にあった。「麗江玉 龍雪山本草診療所」という見覚えのある細長い看板もそのまま古ぼけた建物にかけられていた。
自転車を止めると、すぐに懐かしいドクターが、重たさで汗ばんでしまう厚手の綿入れコートを羽織って中から現れると、私の手を両手で力強く握った。
「いらっしゃい。何年ぶりですか?」
「6年ぶりくらいですね」
診療所の前庭に出されているイスを勧めてくれたので、私は日だまりの中のそれに腰掛け、目をつぶって暖かい太陽に顔を当てた。
彼は屈託ない笑顔で診察室の奥から外国の新聞や雑誌を抱えてくると、テーブルの上に置いた。雑誌の1冊をパラパラとめくって彼の顔写 真付きの記事を見せてくれた。昔何度も見せてもらった(見せられた)ものだったが、私は黙ってそれを見たあと、他の新しい雑誌にも目を通 した。
記名帳もだいぶ増えた。感謝の手紙やはがきなどを、日本語、英語、フランス語など言語別 に整理している。
お礼の手紙には、いろんな病名が書いてあった。高血圧、不眠症、糖尿病、肥満、喘息、花粉症、アトピー性皮膚炎、胃病、便秘などなど。薬が効いたので、また同じものを送ってくれないでしょうかと書かれた依頼の手紙もあった。
玉龍雪山の周辺は、「植物宝庫」と異名をとるほど植物の種類が多い。とくに薬草は昔から有名で、この薬草を使って病気を治す民間療法の伝統が残っている。このドクター・ホー、和士秀さんは、白沙村に診療所を開いているナシ族の薬草医なのである。初めて彼の名前をある旅行者に聞いたとき、正直にいうと、ちょっと怪しいおじさんかなとうさん臭く思ったのだった。
彼はこの年74歳になっていた。しかし、皺は増えたとはいえ、あの童顔は同じだった。灰色の顎鬚が、いかにも隠れ里の仙人のような感じなのだが、喋ると穏やかな声で、目が優しく輝く。それが人懐っこい印象を与えるのだった。有名人だろうが、普通 の旅行者だろうが、区別しないザックバランな性格、これが彼を慕う人を増やしている一番の理由ではないだろうか。
ヤカンに入ったハーブ茶をすすめてくれる。薄緑色したお茶は独特の香りと味をしていて、おいしいとはいえず、やはりどちらかというと、薬の部類に入る。´80年代中ごろ、たいていの旅行者は、私と同様、麗江の町で自転車を借りて、12キロ先の玉 峰寺というチベット仏教のお寺を見学に行っていた。タクシーなどもなく、旅行社も積極的にツアーを組むことをしない時代だったからだ。
この寺の境内には大きな山茶の大木があった。椿の大木である。高さは3メートル、幹の太さは40センチ、500年の歴史があるそうだ。世界最大の椿の木といわれている。(ほんとかなぁ?) 春に訪ねたことがあったが、その時は満開の椿の花を見に、ナシ族やイ族の家族づれがやってきて賑わっていた。
この寺のラマ僧といっしょに食事をしたこともあった。「食べろ、食べろ」といって手に山盛りの豚の脂身をもらって、泣きそうになったことを覚えている。ドクター・ホーの診療所は、玉峰寺の途中、ここ白沙にあった。寺を訪ねたとき、必ず診療所の前を通 り、そのたびにハローと声をかけられて、しばらく立ち話をしていたのだが、そのうち彼に興味が出て、5日間ほどそこに通 って、彼の仕事ぶりを見ていたことがあった。
1884年にオーストリア・ウィーンで生まれたアメリカ人植物学者でもあり探検家でもあったジョセフ・F・ロックは、1922年から1949年まで、たびたび麗江に滞在した。そのとき、ドクター・ホーも、彼から英語と薬草について学んだ。
彼も文化大革命時代は苦しい生活を体験した。当時の話を聞くと途端に口数が少なくなったが、「村は地獄でした・・・」と辛そうに語った彼の顔が思い浮かぶ。
中国の政策が変わって´85にライセンスがおり、この「麗江玉龍雪山本草診療所」を正式に開業することができた。ドクター・ホーもまた中国の対外開放政策によって人生が大きく変わった人物のひとりだった。
彼は旅行者の間でも有名になり、中国国内や遠くは外国からも彼の調合する薬草を求めて訪ねてくるようになった。英語がわかることも、外国人に有名になった理由のひとつだろう。
診療所を開いて1年たつかたたないうちに、彼の名はアメリカの「タイム」誌で紹介されることになった。その後も各国の雑誌や新聞でも取材を受けている。
1991年3月には、映画「ラストエンペラー」に出演した香港の俳優も彼を訪ねてきた。胃の病気に悩んでいたが、ドクターのマッサージとハーブによって、それはすぐ解消した。また、4月には、駐中国イギリス大使、カナダ大使の一行がここに立ち寄った。イギリス大使婦人には座骨神経痛があったが、ドクターのハーブを使ったところ、それが軽くなったといい、2か月後、礼状が送られてきた。それにはエリザベス女王の写 真というオマケまで添えられていたという。
彼は村人の診察や治療のかたわら、山からいろんな薬草を採取して効能や配合を調べ、実際の治療に役立てている。ただ、薬草医とはいっても、薬草だけで病気を治すわけではない。患者の病気を診て、薬草と西洋医学の薬を使い分けたり、併用したりする。
「肺癌のような病気でも、西洋医学と漢方のコンバインが大切だということですよ。大きな病院では医者は西洋医学を学んで、ハーブのことをないがしろにする傾向がありますが、西洋医学だけが万能ではないということを医者は知らなければなりません」 あるとき、こんなことを熱っぽく語ってくれるのだった。また、こんなふうにもいっていた。
「西洋医学では外科、内科、婦人科などといろんな科に分けてしまいますが、私は人間の体をひとつの系として考えています。全体をとらえなければ部分もわからないということです。いや部分だけに気を取られすぎると、全体が見えなくなるといってもいいかもしれません」
このあたりでとれる貴重なハーブをいくつか見せてもらったことがあった。心臓病、血液の循環に効くという「金星七」「雪山チー」「丹参」「紅隔山消」などなど。「雪山チー」は貴重で、ドクターは息子といっしょに玉 龍雪山に上ってこの植物をとってきたが、生えていた範囲は1アールほどの狭い場所だった。そんな話を聞いたせいか、その干からびた茶色い木の根に見えるものが、とても病気に効くような気がしてきたものだった。
ある日、私が彼の保管してあるこれらの珍しいハーブの写真を撮らせてもらっているとき、ドクターは外へ出ましょうと私を促した。どうしたんだろう?と訝しく思いながらドクターに連れられるまま、診療所から100メートルほど離れた玉 龍雪山の見える畑にいった。彼は畑の畦道を歩いていき、座り込んで私を手招きしたので近づいていくと、そこに生えていたレンゲのような草を取り、諭すようにいったのだった。
「あなたはことさら珍しい薬草ばかり写真を撮っていますが、こういう雑草でさえ、ハーブとして何かの役には立つんですよ。役に立たないものなどないんです」
さて
ようやっと時間が1990年にもどってこれそうだ。
ここまで遡って書いてきて思ったのは
子供の頃から「自然」というものから切り離されてきたわたしが
どのようにそれを人としてその結びつきを復活させることができるのか、
その永遠のテーマの旅だったのではないか
ということだった。
「人と自然は大きく結びついている。」
それをあらゆる角度から
何者かがわたしに教えてくれようとしているように思えてきた。
1990年にスタートに始めようと思ったこの話も
父の死に遡ったために今日までかかってしまったのは
それはそれで意味があることだったようだ。
(このあとはこの「ココロの旅」は
1990年
如月からの話しの続きになります。
立春にどうにか間に合いそうです。)