『八ヶ岳西側山麓地帯の大扇状地上にある標高1050-70mの東西に広がる長い台地の上にある。前述のように台地の中央部に沢が走り、北側が与助尾根、南側が尖石にあたる。尖石遺跡が紹介されたのは1893年(明治26年)であるが、地元の考古学者宮坂英弌(ふさかず)によって1929年(昭和4年)に石囲炉跡が発掘された。その後、宮坂は引き続き独力で1940年(昭和15年)から本格的な発掘が開始され、途中太平洋戦争を挟んで1954年(昭和29年)まで続けられた。また、1946年には与助尾根の発掘にも取り掛かった。与助尾根は1935年(昭和10年)に現地を開墾中に発見されたものであったが、この時までほとんど手付かずであった。
宮坂は縄文土器及び石囲炉を手掛りに住居を探すもので、尖石では竪穴式住居跡33ヶ所をはじめ、53ヶ所の炉跡や列石、竪穴群、屋外埋甕などが発掘されたが、土器に比べ石器の出土が極端に少なく、特に石鏃(41)が少なく、打製石斧45、破片8が見つかっている。宮坂は、ワナ猟とクリ林、黒曜石の交易が行われていたと考えた。それに対し、藤森栄一は狩猟・採集以外の何かの生業、例えば焼畑農業が存在したのではないかと考えた。
この集落遺跡は、東西170m・南北90mの範囲をU字形に巡り中央に広場が存在していたことが判明し、これによって日本で最初の縄文時代の集落の存在が確認された遺跡となった。』
『尖石
この石は、高さ1.1メートル、根本の幅1メートルで、先端のとがっているとこころから、「とがりいしさま」と呼ばれています。古くから村人の信仰の対象とされたものらしく、いつの頃からか傍らに石のほこらが祀られました。遺跡の名前もこの石の形からつけられたものです。
この一帯は、明治25年頃桑畑にするために開墾され、その時、見馴れない土器や石器が多量に出土しましたが、祟りを恐れて捨ててしまったといわれています。また、この土器や石器は、大昔ここに住んでいた長者の残したものであろうと、長者屋敷と呼びならわしていました。
そしてこの「とがり石」の下には宝物がかくされているとの言い伝えから、ある時こっそり村人が掘ったところ、その夜たちどころにおこり(熱病)にかかって死んでしまったとのことです。この石を神聖視する信仰から生じた言い伝えでしょう。
石質は八ヶ岳の噴出岩の安山岩で、地中に埋まっている深さは不明です。右肩の樋状の凹みは磨り痕から人工のものと思われます。縄文時代に磨製石斧を制作した際に、共同砥石に使用されたものとも、また縄文時代は石を貴重な利器としたところから、地中から突き出したこの石を祭祀の対象としたものであろうともいわれています。』