『タケミナカタノカミは、諏訪大社の祭神であり、 の子。
国譲りの時に最後まで抵抗した神様である。
タケミナカタノカミの「ミナカタ」は「水潟」に通ずるとされ、水神である竜神や蛇神の姿で描かれている。
の命を受けたタケミカヅチが、 に国を譲るよう迫る。
すると二人の息子に訊ねるように言った。
の一人目の息子 (事代主)はすんなりと快諾する。
しかし、その話を立ち聞きしていたもう一人の息子が抵抗する。
それが諏訪神社の祭神、タケミナカタである。「ここでひそひそ話をしているのは誰だ。
それならば力くらべをしようではないか」。
そうして、二人の力くらべが始まった。
この力くらべが「相撲」の起源とされており、出雲大社の式年遷宮では相撲が執り行われる。
力くらべをすることになったタケミナカタノカミと 。
の力を前に、タケミナカタは全く歯が立たなかった。
追い詰められたタケミナカタは、諏訪湖へ逃げ込み「もうここから出てこないから、許してくれ」と懇願した。
それが祀られるようになったのが、諏訪神社である。』
もう一度、諏訪大社に祀られている神についてみる。諏訪大社の主祭神は建御名方命とするが、別称として建御名方富命・南方刀美命・御名方富命がある。
諏訪大社の名称については、南方刀美神社(みなかたとみじんじゃ)、建御名方寓命神社(たけみなかたとみのみことじんじゃ)、諏方南宮上下社、諏訪神社、諏訪上下社とも呼ばれる。
記紀には大きなからくりがある。その一つが建御名方命の扱いである。解明するため、記紀における神武東征を見よう。
・『古事記』では、東征において神武軍と戦うのは登美の那賀須泥毘古、またの名は登美毘古であり、妹は登美夜毘売という。また、東征の最後において、邇芸速日命(にぎはやしのみこと)は神武に天津瑞(あまつしるし)を献じて仕える。邇芸速日命は那賀須泥毘古の妹登美夜毘売を娶り、子を 宇摩志麻遅命である。那賀須泥毘古の生死については記載されていない。
・『日本書紀』でも磐余彦尊の率いる神武軍と戦うのは長脛彦と記載され、妹は三炊屋(みかしきや)媛、またの名は鳥見屋(とみや)媛という。戦いの終盤、金色の霊鵄(とび)が飛んできた。鵄は磐余彦尊の弓先に止まった。その鵄は光り輝き、まるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍の兵達は皆幻惑されて力を出すことが出来なかった。長髄というのは元々は邑の名だが、これを人名にも用いた。磐余彦尊が鵄の力を借りて戦ったことから、人々はここを鵄の邑と名付けた。今、鳥見というのはこれが訛ったものである。櫛玉饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)またの名は鳥見屋媛を娶り、子は可美真手命(うましまでのみこと)という。饒速日命は長髄彦を殺害し、饒速日命は部下と共に磐余彦尊に帰順したと記載する。
・『先代旧事紀』では、饒速日命は長脛彦の娘の御炊屋媛を娶り、その子は宇麻志麻遅命である。また、饒速日命が亡くなったとき、形見の天璽瑞宝を登美白庭邑(奈良県生駒市の北部)に埋葬した。宇摩志麻地命は舅(長髄彦)は謀をして舅(長髄彦)を殺し、衆を率いて帰順したと記載する。
長髄彦、すなわちは鳥見白庭山を本拠地とし、その勢力圏は隣接する領域を次々に傘下におさめ、それは三輪山一帯にまで及んでいたのではなかろうかする見方さえある。建御名方命は長脛彦その人か、あるいはその子であり、神武との戦いに善戦し、敗れ、諏訪に下ったと考える。記紀の記載に反し、建御雷神、経津主神と共に日本三大軍神と称えられるのはそれなりの理由があるのだ。
また、記紀は出雲の国譲りを効果的に表現するため、神武東征の戦いで健闘した建御名方命を国譲りという別の出来事に登場させ、敗れた武将として記載し、神武東征においては長髄彦として扱ったのである。』
えええええー!
『トミノ長髄彦』
と
『建御名方ノトミ』
が、
同一人物か、その子だったと???
おお!
すでに頭がグルグルになってしまってます。
スワと富士山の関わりに関しては
なんども
何度も
書いていますが
ここに、そんなカラクリがあったとは…!
やはり、富士山もまた、
トミの山!!!