赫夜姫(かぐやひめ)…
昨日から
また、どっぷりと
かぐやひめのこと。
かぐや姫の話をしなくてはなりません。
この、わたしが!
なんの因果なのでしょう。
富士山の女神であった
かぐや姫。
忍野村にお隠れになったという
かぐや姫。
(いままで、なんども
わたしなりのかぐや姫を展開しているのだけど。)
でも、
今回は
わたしの持論ではなくて
一般のかたがわかるように
富士山とかぐや姫のお話をしなくてはならなくて…
改めて、考えてみると
『竹取物語』のヒロインである
竹から生まれたこのお姫様が
実は、月の都から来た人で
八月十五日の満月の夜
月からのお迎えで
月に帰っていくラストシーンは
いったい何を意味するものなのでしょうか。
というエピソードは
なにを表すのかしら?
桃から生まれた桃太郎…
一寸法師のモデルといわれる
少彦名(スクナビコナ)は
ガガイモの舟に乗ってきた。
竹がピカピカと輝いていたから
赫夜姫(かぐやひめ)
だけれとも
この話は悲劇だ。
かぐや姫のほんとうの幸せは
どこにあったのだろう。
『かぐや姫の嘆き』
現代語訳
八月十五日ごろの月が出ているときに、かぐや姫ははげしく泣いていらっしゃる。今は人目もくれずに泣いていらっしゃる。これを見て親たちは
「どうしたのだ」
とかぐや姫に尋ねて騒いでいる。かぐや姫が泣きながら言うことには
「以前にもお話申し上げようと思っていたけれども、必ず困惑されると思って、今まで過ごしてきました。そのように黙って過ごしていられようかと思って、うちあけてしまいます。
私はこの国の人間ではありません。月の都の人間です。前世の約束によって、この世界にやってきたのです。そして帰るときになったので、今月の15日に、月の都の国から私を向かえに人々がやってくることになっています。やむを得ず、月の都へ行かなければならないので、(おじいさん、おばあさんがお嘆きになるようなことが悲しいということを、)私はこの春から思い嘆いているのです。」
とのことで、かぐや姫は大変泣いているのでした。これを見たおじいさんは、
「これは、何ということをおっしゃるのですか。竹の中から見つけ申し上げましたが、菜種ほどの大きさでいらっしゃったあなたを、私ほどの背の高さまで大きくなるまで育てたのです。そのわが子を何者が迎えにくるというのですか。許すわけにはいきません。」
と言って
「私が死のう。」
と泣き喚いている様子は、とても我慢できない感じである。かぐや姫が言うには
「月の都には父と母がいます。ほんの少しの間ということで、あの国(月の国)から参りましたが、この国(日本)で長い年月を過ごしてしまいました。あの国の父・母のことは覚えておりません。ここでは、このように長い間楽しく過ごさせて頂き、慣れ親しんでおります。(帰ることに対して)良い心地はしません。悲しさだけがあります。しかし、自分の心どおりにはいかずに出て行くのです。」
と言って、一緒にはげしく泣く。(かぐや姫の)身辺のお世話をさせている人々も、長年親しんでいながらも、別れてしまうことを、(かぐや姫が)気立てなどが上品でかわいらしい様子であったのを見慣れていたので、その姿を(かぐや姫が帰ったあとに)恋しく思うことが堪えがたく、湯水も飲むことができずに、おじいさん、おばあさんと同じように嘆き悲しんだ。
そして
八月十五日の晩
いよいよ
月からのお迎えが…
(画像はこちらからお借りしました)
この
ラストシーンは悲しい。
だけれども
なぜに、
富士山の女神とされたのかしら?
もしかしたら…
かぐやひめ
は
迦具土(かぐつち)という火の神と
混同視されたのではないかしら?
平安時代は
富士山は
なんども、なんども
大きな噴火をしているのだから。
それならば
『赫夜姫』
と書くのが
なんとなく、納得が行くような気がします。
火山噴火は
『昼は雲の柱・夜は火の柱』
と、
称されるのだから。
こちらも
富士山の祭神、木花咲耶姫の別の姿でもあります。)
かぐや姫も
木花咲耶姫も
もしかしたら
ものすごくパッショネイトな
お方なのではありませんか?