またまた
天皇ネタですか?
まったくイヤになってしまいます。
興味無いって言ってるでしょ‼
ほんとうにそうなのです。
でも
今日は、こんな話です。
山中湖から御殿場に抜ける
“籠坂”の話は何度かした覚えがあります。
そこに
“加古坂神社”という
『藤原光親』という方を
祀る神社あり。
御殿場へ行くのに、必ず通るのですが
そして、何度となくお参りしたことがあるのですが
加古坂神社の由来を何度読んでも
なにがなんだかわからなかったのです。
意味もわからなかったこともあり
特に気にしたこともなかったのに
突然、去年の10月から
浮上してきたような気がしています。
もっとも、
このころ浮上して
また、沈んだのに
再び再浮上、という感じなのかしら?
まずは、
昨年10月の記事をお読みくださいね。
『わあ!
まさに
南北の和合だねーーーー!
(南朝と北朝、もともとひとつだったもの
別れ別れになったものが、また、ひとつになろうとしているのではないか???)
そんなおしゃべりをしたのだった。
そのころ、わたしは
どういう訳か
この友人と
山中湖と須走の間にある
加古坂(カゴサカ)神社に行く羽目となっていた。
ここは、
鎌倉時代の初め
後鳥羽上皇のご縁の深かった
藤原光親を祀る神社。
藤原MITHUCHIKA!
また、M‼
この加古坂神社の先ほどで
彼は、
斬首されたのだ。
鎌倉街道を越える手前で。
(鎌倉街道は、かなりなキーワードだ。なぜなら、奈良県奥吉野にいた、護良親王も、鎌倉に幽閉される時、この鎌倉街道を通ったと思われるのだから。もっとも、護良親王は、藤原光親の、111年のちである。)』
(わたしが10月6日に行く羽目となった
(またサンダルで登った!)
藤原光親の首塚)
このときに
すでに『南北の和合』なるキーワードが出ていたことに驚かされるのですが、
このときは、まったくピンと来ていないのです。
ましてや
『後鳥羽天皇(上皇)』の名が出て来ても
ふーん、といった感じで
なんだか良くわからなかった。
なぜか今頃になって
ゾロゾロと
キーワードがてんこ盛りとなる不思議‼
このお二人(後鳥羽天皇と藤原光親)の関係をお話する前に
後鳥羽天皇(上皇)とは、どんな人物だったのか、
こちらがわかりやすいです。
後鳥羽上皇を5分で!
(こんな方!)
『後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)といえば、三種の神器を持たずに即位し、源氏から政権を取り戻すことを夢見て、承久の乱を起こした天皇です。
そして最後は島流しという騒然たる人生を送りました。
今回、後鳥羽上皇のかんたんな経歴、天皇なのに島流し?について、恨みで怨霊になった?について紹介します。
『後鳥羽上皇は平家滅亡という動乱の中、4歳で天皇に即位します。
しかしながらこの天皇即位は、即位必須アイテムの三種の神器が揃ってないという、異例の事態だったのです。
と、いうのも先代の天皇は、異母兄の安徳天皇(あんとくてんのう)で、あの平清盛の孫でした。
平家滅亡の際に三種の神器のアイテムと一緒に壇の浦に沈んだとされているからです。
(諸説ありますが、その後捜索され現在まで三種の神器は揃っているようです。)
その頃の世は、源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に幕府を開き、政治の中心は源氏にありました。
が、京都を中心とした西側一帯は貴族たちの荘園もあり、鎌倉政権と朝廷との複雑な力関係が交錯していた時代でした。
そんな時代だからこそ、後鳥羽上皇は源氏から政権を奪い返そうとずっと計画していたのです。
その計画に闘志を燃やしながらも、乗馬や弓を始め武芸を磨き、特に和歌の才能はピカイチでした。
百人一首を作った藤原定家(ふじわらのさだいえ)と、和歌を巡って真っ向から対立したエピソードが残っているくらいに情熱を注ぎ込みます。
そして承久の乱を起こす前の33歳の時に詠んだ歌が、
「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」
です。
99番目の歌人として百人一首に選ばれており、その意味は、「人を愛しくも恨めしくも思う。世の中も自分の思い通りにならなくて悩んでしまうよ。」と、いった感じです。
武家との力関係が複雑な激動時代だからこそ詠んだ歌なのかも知れません。』
わかりやすく言えば…
・源氏から政権を取り戻そうと承久の乱を起こして惨敗した
・三種の神器を持たずに即位した
・天皇なのに隠岐の島に島流しになった
・怨霊になるかもとほのめかし、怨霊になった
・武芸から和歌まで多彩な才能を持っていた
ということなのです。
で
山中湖の加古坂神社の祭神である
『藤原光親』との関係は???
それには
加古坂神社の由来書きより。
『加古坂神社は山中湖から御殿場へ抜ける籠坂峠に位置し、藤原光親(葉室光親)を祀っています。 ※藤原光親(ふじわらのみつちか)は永久の変(永久3年)のとき、後鳥羽上皇が北条氏の討伐の企てに際し、藤原光親卿は極力時期尚早を上奏しましたが聞き入れられず、義時追討の案文を書く。謀議はいち早く鎌倉にもれ、謀議に参加した光親卿は捕われの身となり、甲斐武田五郎信光により、鎌倉護送の途中の籠坂峠において斬首。』
記事を書いているわたしでも
頭がこんがらがるのだから
めんどくさくて
読みたくなくなる方がいらっしゃるのだろうな。
わかります!
なにしろ、重要なことは
この富士山の北麓の地に
なぜ、こんなにも、やんごとなき方々の史跡があるのでしょう?
そのことを
わたしは書きたい、
いやいや
書かされ続けているような気がするのです。