来た道を戻る途中に
それは、あった。
溶岩流の上に出来た林で
昔は何にも無かったのだそうだ。
(現在は、民家が点在している)
この神社は、比較的新しい時代に出来たものらしく、
先の『山中湖の史話と伝説』にも
一行も触れられてはいない。
だけれども、
先ほど行った『藤塚陵』と
道は一本で結ばれており
その道は、鎌倉街道に繋がっている。
江戸時代(天明年間)に
京都の方から
藤原右京なる祈祷師がやって来て
村のために五穀豊穣を祈り
ここに祀ったのが
『九郎貴大神』ということらしい。
今から、二百余年も前のことです。白装束に身をまとい、祈講師と思われる高貴の人がある日、山中の集落を訪ねて来ました。
この時代は天明の大飢饉のころであったといいます。その人は毎日ドンツク、ドンツクと団扇太鼓を打ち鳴らしながら、集落を回り五穀豊鏡、無病患災を祈っていたと伝えられています。
村人はその時の、団扇太鼓の音色や、白装束姿やいろいろな仕種などがめずらしく、いつか、誰いうとも無く「とんちき和尚」と呼ぶようになったと言います。(和尚とは僧侶の尊称であり、神に仕える身には和尚はおかしいが、高貴な人であるという尊敬の意からであるとか)
ところがある日のこと、「とんちき和尚」は宿泊した名主の湊屋で、一升三合の「むすび」を作ってもらい、お山(現 山中口登山道に通ずる山道)へ祈祷の旅に出かけたそうです。
けれど「とんちき和尚」は、そのまま消息が絶えてしまったそうです。飢饉で苦しんでいる人びとを救うために神仏に祈りを続け、湊屋でもらったむすびが無くなってからもなお祈り続けたため、山中で命絶えてしまったのでしょうかその後、湊屋では所有地に、神社を造って九郎貴様大神をお祀りし、陰暦の三月十五日(現在は四月十五日)に、年々盛大に祭典が行なわれています。
古文書によると、藤原鎌足公子孫、藤原右京、右京改め、俊国、云々とあります。
ご神体には、奉鎮座、九郎貴大神、神霊とあり、丁丑年四月十五日、宮司と記述の文字が明確に見られます。 (山中湖村)
こちらの大祭は
4月15日‼
わたしがこの日(4月20日)に撮った画像は普通だけど、
『たまたま行ったらお祭りの日だったの〜。その日に撮った写真、なんだかスゴイのよ〜』
と
ルカちゃん。
えええ?
どれどれ⁇
と、見せてもらったのが
こちらの画像。
ほんとうに不思議な光が写り込んでいる!
(以下、ルカちゃんの写真をお借りしました。)
ええええ〜⁉
わたしはあることを思い出した。
昨年の6月末に
山梨の金桜神社で撮った
不思議な…
それがこちら。
現れた光‼
ルカちゃんとAちゃんに見せると
似てる!似てる‼
と
なにかがつながって行く。
この、虹色の存在は
なんのメッセージなのだろう。
クロキさまにを後にして
最後に、
どうしても寄りたいところがあった。
それは、ここからすぐ湖畔よりにある
『高村家宗祖の墓』
おそらく
ここがもっとも重要で
この日に行ったすべての
謎解きにつながる場所であること
この時
わたしたちはまだ知らなかったのだった。