えええええ?
帰ろうとする友人に
わたしは、懇願した。
はじめは
『熊野古道に行こうと思うんだけど、行く?』とわたしを誘った友人が
もう帰ろうとするのは、よくあるパターンだ。
最初と最後が違うことは
この友人はよくあることだ。
でも、
わたしは違う。
わたしはかなりしつこい。
行くんだったら行くんだ。
ここまで来たんだもの。
でも
わたしは何故、行きたかったんだっけ?
思い出した。
アンドレ・マルローだ。
フランスのドゴール政権の時に
文化相という地位にいた(1960ー1969)アンドレ・マルロー。
彼の『空想美術館』の中の
那智の瀧図
そこだ。
『内宮外宮を含め千古の技術を集めた神宝の再生された第六十回伊勢遷宮(1973年10月)の7ヶ月後、1974年5月マルローは参拝している。そして、伊勢神宮の参拝においては、それまでの彼の聖芸術探索をつうじて追究してきた神性、聖性を産みおとしたところの、さらに元にあるもの、何かしら根源的なものへ、眼差しを据えている。「忘れられた建築家が、この社を創案したのだった。日本人が、絶える事なくそれを燃しては立て直す。それゆえにこそ、永遠なれと。忘れられた庭師が、これらの木々をうえたのだった。幾百年後にも大地からの未知の祝詞が人々の耳に届くようにと。西洋の建築家は、その聖堂が久遠の石のごとくであれと夢み、伊勢の大工たちは、その柱が、この上なく壮麗な宴のごとくであれと念じた。
しかして、このたまゆらは、大聖堂よりピラミッドより力強く、永遠を語るのだ。そそり立つ列柱、そそり立つ飛瀑、光に溶け入る白刃。日本。」
(アンドレ・マルロー『反回想録』第五部第二章) 更にこう続く。
「伊勢神宮は過去を持たない。20年毎に建てなおすゆえに。かつ又、それは現在でもない。いやしくも千五百年このかた前身を模しつづけてきたゆえに。仏寺においては、日本は、自らの過去を愛する。が、神道はその覇者なのだ。人の手によって制覇された永遠であり、火災を免れずとも、時の奥底から来たり、人の運命と同じく必滅ながら、往年の日本と同じく不滅なのだ。神宮は、テンプルにしてテンプルにあらず。これを木々から隔てるや、それは、命を失うのだから。杉の巨木のかたちづくる大聖堂の、神宮は祭壇にして、サンクチュアリ。ただし、西洋の大聖堂の円柱は、穹窿の暗がりへと消え、これらの杉の大木は祭壇を讃美するのだ。日本の祖先。太陽への捧げもの。光箭の葉ごもりへと掻き消えたるはてしなき、その垂直軸をもって、、、」この参拝に同行したマルローの研究家である竹本忠雄は、これをマルローの悟りと著書のなかで書いている。神道的霊性の本質がなければ、マルローの悟りもありえなかったと。』
彼が神を感じた
というよりも
風景画と、宗教画を
同一視出来る日本人の自然観に神秘を感じた
『那智の瀧図』
それが、ご神体である。
こんな国
こんな人々は
他にいるだろうか?
一本の瀧
それを神と思い
遥拝することの出来る民族。
アンドレ・マルローは
そこに神秘性を感じたのだのだった。
わたしが、
その話を読んだのは
30年近い前かもしれない。
那智の滝には
だから、行ってみたいと思った。
それを前にしたとき
わたしは、日本人として
どのように感じるのだろう。
ね
もうね
那智の滝
だけでいいよ!
そこだけでいい。
行ってみたい。
行きたい。
わたしは友人に懇願した。
あわよくば
熊野三社巡り
だなんてことも考えていた。
でも、もういい。
那智の滝だけでいいよう。
行きたいんだ。
すると友人は
しょうがないなあ、という感じで
じゃあ、
ナビに入れて、と言った。
わたしは
『那智の滝』
と入れた。
42号線を
海岸線沿いにドンドコ行けば
そちらにいけるらしい。
南へ!
左手にやって来た。
熊野灘だ!