何だかこのテーマを最後に書いてから
かなり時間が経ってしまった感があるのですが…
ひかりのあめふるしま
『霊峰に招かれて』シリーズの続きです。
1992年か93年
(本当に思い出せなくてごめんなさい。)
誕生日にY子ちゃんから頂いた写真集が引き金となって
屋久島に.当時のBFと訪れたのでした。
それまで
全く、原生的自然、など
知らなかった私たち。
しかし
魂を揺さぶられるには充分な
この森。
(屋久島の画像、お借りしました。)
我が家のリビングに飾ってあります。
青木ヶ原樹海。
(こちらは一昨日の画像)
なんとまあ
屋久島によく似ていることでしょう。
こちらの山下大明氏の写真集に
初めて知った、
山尾三省という詩人のエッセイがありました。
それは、
そのフレーズは
わたしには
衝撃的だったのです。
『自分としての森』
山尾三省
この写真集の中にも一枚だけ出てくるが、
雨を受けてしぶき濡れながら立っているヒメシャラの樹がある。
紅いとさえ呼べるすべすべとした樹肌を、
水が音もなく伝い流れてくる。
樹は、
その内部では水を吸い上げているのだが、
外部では水をしたたり流している。
じっとその有様を見つめていると、
樹と水とは別々のものではなく、
樹は水のひとつの形であり、
水が実は樹という喜びの形で立っているのだ、
ということが突然了解されてくる。
(中略)
岩においても同様のことが言える。
岩を抱いて立ちつくしている樹は、
樹でありながら実は岩でもあるのではないだろうか。
岩と樹は、別々の生命の形として共存してはいるけれども
同じ生命から巡りきた兄弟としてそのように抱きあっているのではないだろうか。
詩人はここで
『樹は水という喜びの形をとる』
と、表現し
それは、わたしのタマシヒを震わせるに充分な表現だったのです。
そして、さらに
『岩と樹』は
同じ生命から巡りきた兄弟として
抱きあっている、と
瑞々しい詩人の感性は捉えているのでした。
水、
樹、
岩…
それらが同一の生命の
異なるカタチである、
と。
これは、まさしく
日本人の自然観。
あるいは、
アイヌの
ネイティブアメリカンの
それ。
『山川草木悉皆成仏』