今年、二十歳になった
わたしのたったひとりの甥っ子(姉の長男)には
ポリタス
『「棄権」や「白票」という選択肢はありうるか
もう一つ、今回の選挙で投票所に行くことに気乗りしないという人が、「棄権」や「白票」という形式で「意思表示」することについて、私の考えを述べておきます。
「欲しい商品がお店に無いから買わない」のと同じ感覚で「入れたい政党が見当たらないから投票しない」という棄権行動を、想田和弘さんは「消費者民主主義」と的確に表現されていますが、民主主義国の市民は本来、死ぬまで選挙で有効票を投じる「義務と責任」を負う立場にあります。ここで言う「市民の責任」とは、今を生きる自分だけでなく、まだ選挙権を持たない世代やまだ生まれていない世代への「責任」も含む、大きな概念です。なぜなら、その選挙の結果は、まだ選挙権を持たない世代やまだ生まれていない世代の生活を大きく左右することもあるからです。正しい答えがわからなくても、責任を負います。
今を生きる自分の都合しか考えず、「投票したい、投票するに値する政党が見当たらないから投票に行かない/白票を投じる」とか「誰か投票するに値する候補者を用意してくれれば、選挙に行ってやってもいい」「それができないのは政治サイドの責任であって、俺の責任じゃない」などと居直る、親に甘えた子供のような発想は、少なくとも国民が命がけで旧体制と戦って「民主化」を勝ち取った国では、決して出てこないでしょう。
与党には投票したくないが、かと言って野党の中で最も有力だと思われる政党も「気に入らない」ので票を入れたくはない——私も選挙のたびに、この種のジレンマと戦い続けていますが、大きな問題との対峙で小さな「自分の都合」や「自分の面子」を優先するのは、引いた視点や歴史的な観点で見れば、まったく合理的判断とは言えません。
実質的な「選択の自由」が与えられた環境で国民が投票できる選挙は、もしかしたら今回が最後になるかもしれない。ほとんどの日本人は、そんな風には考えていないでしょうが、古今東西の戦史や紛争史を調べれば、それと気付かないまま「最後の民主的選挙」を通り過ぎて、後戻りのできない「別の政治体制」へと移行した例は、決して少なくありません。
「投票で政治を変えることはできない」という指摘は、現状では正しい部分もありますが、権力者は「投票結果を武器として、盾として、最大限に利用する」ことも事実です。現在の選挙制度では、「棄権」や「白票」は与党に投票したのと同等の効果を持ちます。
そう考えれば、民主主義国の選挙における「棄権」や「白票」という選択肢が、果たしてありうるのか、という認識も、少しは変わるのではないでしょうか。
投票率の異常な少なさが
この国の未来を変えてしまうことの無いように!
投票に行こう‼
今日の富士山