『ね、ここ、孔雀が居たとこだよね?』
『やっぱりそうだよね?ここをふたりで歩いたよね。12年前。』
昨日も前の家の畑のコスモスを片付けに行った帰り、そんな会話を交わしたのだ。
新しい家の近くに、木造の洋風な古い建物があって、
12年前にわたしが忍野に湖があってそのほとりに住んでいる夢を見たことで、ふたりでここを歩いたのだった。
そのときにふたりの記憶では、その建物で、孔雀を飼っていたのだ。
ふたりして覚えているのだから、勘違いなどでは無い。でも、それは本当に『この次元』の話なのだろうか?
今日もそこをわたしは新居に戻る途中、左にその建物を見ながら、それを思い出していた。
どうも、妙だなあ。
こんなところであの時、孔雀を本当に飼っていたのだろうか。忍野村はとても寒いのである。
12年前、この建物の前をふたりで歩いたときに、わたしはこう感じたのを今日は思い出す。
『うん、ここは来たことがあるぞ。』
つまり、デジャヴという奴だ。
現在の新居には、繰り返し、繰り返し、来いよ、来いよ、と云われているようだ。
『呼ばれている』
わたしはその言葉はあまり好きでは無いのだけど、普通に考えてみても、誰か、もしくは何かの存在が、用意周到に、繰り返し、ここにわたしを配置したかったのだ。そんな事を思う。
一度目は、20年ほど前。
田舎暮らしがしたくて、物件を探したら、ここのすぐ近くの別荘を紹介された。カラスとカメムシがたくさんいたので、暮らす気にはなれなかった。そのあと見に行った八ヶ岳の別荘はたいへん気に入って購入しようとしたら、ローンが降りずに断念。
二度目は12年前の、その夢だ。
ふたりでここを歩いたけれど、わたしが夢に見た湖などありはしない。そう、わたしの夢にでてきたのは、古代の宇宙湖だったのだ。彼は『また、君に騙された』と言って、忍野に住むことは断念。そのときに孔雀を確かにふたりして見たのだ。
三度目。
昨年11月に、とある不動産屋さんで、現在の家の四軒手前を案内され、そのときに燃えるような富士山の夕焼けを見た。
この話は何度もブログに書いているが、今、毎日通いながら、この不思議さに首をかしげている。
今日は、何故か突然、
孔雀??? それになにかしら意味があるのでは無いかしら?と思った。
例の、シンボリックゲームである。
『孔雀』
それで検索してみたら、孔雀明王というのが、密教に存在することを確認した。
『マハーマーユーリー』
これは気になるぞ。
孔雀明王
『元来はインドの女神マハーマーユーリー(महामायूरी Mahāmāyūrī)で、パーンチャ・ラクシャー(五守護女神)の一柱。
マハーマーユーリーは「偉大な孔雀」の意。摩訶摩瑜利(まかまゆり)、孔雀仏母、孔雀王母菩薩、金色孔雀王とも呼ばれる。憤怒の相が特徴である明王のなかで唯一、慈悲を表した菩薩形をもつ。孔雀の上に乗り、一面四臂の姿で表されることが多い。4本の手にはそれぞれ倶縁果、吉祥果、蓮華、孔雀の尾を持つ。なお、京都・仁和寺の画像(北宋時代、国宝)のように三面六臂に表された像もある。』
インドの女神!
サンスクリット語(古代のインドの言語)だと、
mayuraはオスの孔雀
mayuriがメスの孔雀であるという。
明王は男性のイメージなのに、孔雀明王は、女神であったとは!
また、とんでもない妄想の世界に、引きずり込まれているのかも知れないが
忍野はやはり、わたしにとって、用意周到に配属された次なる土地なのだ。
ここで、わたしに何をしろというのでしょう。
そもそも
どなたが?
推理小説の謎解きのようです。